アモス書5 章4 節~15 節
まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。(アモス5:4)
一昨日11 月7 日。封切り初日の映画『ボンヘッファーヒトラーを暗殺しようとした牧師』を有楽町の映画館に観に行ってきました。ボンヘッファーはナチスドイツの台頭が強まる中で、ユダヤ人虐殺という事態を食い止めるために、そして「教会が教会であること」のために、懸命に神学し、また抵抗した若い牧師です。映画では、ナチスの圧力にドイツの教会が屈し(あるいは自ら進んで迎合し)、沈黙し、次第にアーリア人至上主義的な聖書理解に染まり、ヒトラー総統を神に準ずる存在として崇拝し始めていくドイツ教会の現実の中で、「神ならぬものを神としてはならないこと、現在のドイツ的な教会の姿は裁かれるべきであること」を聖堂の説教壇から語るボンヘッファーの姿が描かれています。当然、この説教以降、ボンヘッファーへの敵視と監視は強まり、ゲシュタポによって逮捕の機会がうかがわれていくことになります。
彼を心配する人々がボンヘッファーに言論を慎むように忠告をしますが、それに対して次のように答える場面が印象的でした。「悪の中での沈黙は悪です。それは神の前では罪です」。こう語る彼は、「(わたしたち告白教会は)イエス・キリストのみを救い主と告白する。それ以外の何ものをも救い主の地位に置くことをしない」という信仰告白を新聞に寄稿し、ナチスドイツに対して精神的な宣戦布告をしていきます。まもなく、ヒトラー暗殺を企てたメンバーの一員だったという容疑で逮捕されたボンヘッファーは、テーゲル収容所に始まりいくつかの強制収容所をたらいまわしにされながら、フロッセンブュルク収容所にて1945 年4 月9 日絞首刑に処せられました。39 歳の若き死でした。
本日はアモス書5 章がテキストです。印象深い預言の言葉は、「主を求めよ、そして生きよ」(4 節、6 節)という言葉と「知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」という言葉です。「主を求める」とは「何を求めない」ことなのか。「生きる・生きている」とはどういう状態のことを指すのか。「沈黙」という言論、「行動しない」という行動、それは恐ろしい力を増長させていくのではないのか。権力者が振るう横暴な暴力の前に、言論や批判が封じられていく。批判者が「テロ」呼ばわりされて排除される。ネット上では良心的な言葉が猛攻撃を受ける。マスメディア自身が沈黙に徹する。アモスの言葉は「今日」に向けて放たれています。「これは悪い時代だ」と。吉髙叶