マタイによる福音書10 章16-25 節
わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ10:16)
101 年前の9 月1 日に起こった関東大震災。それは恐ろしい虐殺事件の始まりでもありました。東京の各地で火災が発生し人々が逃げ惑う中、「朝鮮人が火をつけた」「井戸に毒を投げ込んだ」とデマが拡散し、民間の自警団等によって朝鮮人たちが次々と虐殺されていきました。理由は、ただ「朝鮮人だから」ということでした。
2 月3 日マイノリティ宣教センター「つきいち広場」のゲストとして、虐殺の現場の一つでもある墨田区荒川の河川敷(四ツ木橋そば)で、1982 年から手づくりでの追悼式を続けている市民団体「ほうせんか」の理事、在日朝鮮人(韓国籍)2 世の慎民子(しんみんじゃ)さんをお迎えして話を伺いました。慎民子さんは、町工場を営んだ父親の元、東京で生まれ、日本の学校へ通っておられました。1950-60 年代は一貫して日本名を名乗り、日本人として暮らすのを当たり前のように歩んでこられたそうです。しかし、ある日、関東大震災下の朝鮮人虐殺の歴史を知ります。その時、彼女は「いざとなったら、自分は殺される側の人間なのだ」ということをまざまざと突きつけられ、恐怖におののいたと言います。でも、だからこそいまは、そうした出来事を二度と起こさせないために、歴史を埋もれさせず、追悼と記念と学習の手助けを続けているのだ、と語られました。
「自分は殺される側の人間なのだ」。このいのちの芯から凍てついてしまうような恐怖。殺される側に帰属し、それにつながれてしまっているという底知れぬ絶望。それを味わいながらも、その恐ろしい土壌を踏みしめて生き抜いている人々がいます。「共に生きよう、いっしょに生きて下さい」と呼びかけている人々がいます。
マタイ福音書10 章は、イエスが12 弟子を選び立てた後に、自分に従うあなたたちは、人々から迫害され、捕らえられ、尋問され、鞭打たれるであろうこと、家族・きょうだいとの対立や絶縁を強いられるかもしれないことを、厳しさをもって伝えているところです。「キリストを信じましょう。でも、なんの良いこともありませんよ」。こんなことをわたしたちは決して語りたくはありません。でも、時代や国が変われば「キリスト信者」という理由だけで迫害や弾圧の的(受ける側の人)になってしまうことは、あります。
「思想・信条・信教の自由」とは、そういう社会や事態にさせないための「人間の尊厳の保障」なのです。本日の礼拝では「信教の自由をおぼえて」祈りを合わせます。吉髙叶