フィリピの信徒への手紙3 章10 ~ 4 章1 節
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら・・・(フィリピ3:10)
本日の礼拝は、沖縄戦が組織的に終結したとされる「6.23」に因んで「沖縄をおぼえる礼拝」として捧げます。沖縄戦。日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われ、軍民合わせて20 万人以上もの尊い命が失われました。「国家」「国体」という大義の名の下に、人々は「捨て石」とされ、多くの人々が「集団自決(強制集団死)」へと追い込まれました。そこでは、一人ひとりの顔のある、名前のある、温かい血の通った命が、あまりにも無残に踏みにじられたのです。この想像を絶する死の淵から一つの言葉が、祈りのように、不屈の宣言のように、立ち上がってきました。それが「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」です。
「命こそが宝である」。この言葉は、あらゆる国家、イデオロギー、体制、大義といった、人間が作り出す「巨大な物語」の前に、今ここに在る、かけがえのない「個々の命」こそが、何物にも代えがたい無比の宝なのだという痛切な叫びです。それは、巨大な暴力に対する、最も根源的で、最も力強い精神的な抵抗の表明でした。死の灰の中から、沖縄の人々は、命の絶対的な尊厳を再発見したのです。
フィリピの信徒への手紙は、過酷な獄中にあって、パウロがキリストの死と復活の姿に自らを重ね合わせて、自分の生と死の意味を告白している書簡でもあります。キリストの弱さへの従順、しかも十字架=「捨てられた命」の死にこそ復活の力を観ていくのです。イエス・キリストの十字架の死とは、まさに「捨てられた命」の極致です。弟子たちに裏切られ、民衆に嘲られ、国家の権力によって無力に処刑されていった命。人間の価値基準から見れば、それは完全な敗北であり、無価値な死でした。しかし、神は、まさにこの見捨てられ、無価値とされた命をこそ選び取り、ご自身の最高の「宝」として復活させたという出来事です。神は、打ち砕かれた者、苦しむ者、社会の片隅に追いやられた者の側に立たれる。ここに、沖縄の叫びが、キリストの十字架と深く共鳴するのです。沖縄戦で「捨て石」とされた、名もなき一人ひとりの命。その苦しみ、その涙、その無念の死。十字架のキリストは、その一つひとつの命に、ご自身の姿を重ね合わせておられるのではないでしょうか。キリストの十字架は、国家や大義の名の下に軽んじられたすべての命に向かって、「あなたは決して無価値ではない。あなたは、神の目から見て、最高の『宝』なのだ」と、静かに、しかし力強く語りかけているのです。吉髙叶