2026年1月25日礼拝「聞く耳・決意と熱意」

マルコによる福音書4 章1-9 節

そして(イエスは)、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。(マルコ4:9)

『マルコによる福音書』4 章は「たとえ話」のブロックで、「種」にまつわる三つの話が配置されています。ところで、「イエスはたくさんのたとえ話を語られた」という印象を持つ人は多いでしょう。しかし、「マルコ福音書」では4 章の「種の話」三つと12 章の「ぶどう園と農夫」のたとえのみです。弟子たちへの教育的意図を表す「説教」や「たとえ話」を省き、ただただ「十字架の苦難」へと進み行くイエスの姿を描こうとする「マルコ福音書」の独特性が、そこにあります。その「貴重なたとえ話」にマルコ著者が何を託そうとしたのか。それは、4 章までの文脈の流れをたどれば一目瞭然です。
マルコ福音書1 章21 節~ 3 章12 節までは「イエスによるいやし」の報告がたたみ込むように記されていきます。その際、群衆があちこちから押し寄せてきている事実が、必ず書き添えられています。人々がイエスに対して抱いた興味や関心は「癒やされることばかりだった」と言わんばかりです。3 章7 節~ 12 節には、そんな不本意で忙しい状況に、イエス自身、辟易しているニュアンスが読み取れます。3 章にはイエスと宗教指導者たちの論争が集められています。論争を重ねた結果、宗教指導者たちはイエスを憎み、遂にはイエス殺害を企図し始める、という流れです。またそれに挟まるように、イエスの身内の人たちが「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」いきさつや(3:21)、これら一連の流れの最後に、母や兄弟までもがイエスの活動を案じてやってきて、イエスが「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と「血縁の関係」を相対化する様子が記されています(3:31-35)。それらを受けての「種を蒔く人」のたとえ話なのです。
切実であることは致し方ないのですが、「いやしを求めて集まってくる人」ばかりであること、「イエスの言葉につまづき怒る人」が増殖すること、そして身内からも理解されない哀しみ。イエスの語る「神の国の宣教」は、常に誤解・無理解・反発・妨害に囲まれていくことを、弟子たちに、ひいては「マルコ共同体」に悟らせようとしています。
道ばた、石だらけの土地、茨に囲まれた地面、そして良い土地。人間の「信仰の度合い」や「タイプ」をここから聞き取ろうとしてしまいがちですが、「マルコ共同体」が実際に経験していた誤解や迫害、家族との絶縁や仲間の脱落の苦しみを感じ取ると共に、「それでも、神は、福音の種(神の国の接近)を、どのような土地の上にも蒔き続けてくださっているのだ」と信じて生き抜いていた共同体の懸命な姿を想像したいと思います。吉髙叶

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