テモテへの手紙一1 章12-20 節
わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり・・・人々の手本となるためでした。(テモテ1:16)
先週まで読んで来た『テトスへの手紙』から『テモテへの手紙』に書簡が移りましたが、本日のキーワードも「神の憐れみ」です。「憐れみ」という言葉を聞くと、「同情」とか「かわいそうと思う気持ち」のことを思い浮かべます。そして、なんとなく「上から下へ」向けられるもののようで、「憐れみなんていらない」「憐れんでなんて欲しくない」と感じてしまいますね。ただ、「テトス書」や「テモテ書」に繰り返し登場する「憐れみ」(エレオー)は、とても動的なもので、「人の苦悩する現実のただ中に入り込み、その人を新しくしようとする神の働きかけ」を意味しています。そしてパウロが「神の憐れみ」を語るときには、自分の荒れ狂っていた過去や、今なおいかんともし難い弱さ・罪深さに対する神の働きかけとして、しかも進行形の働きかけとして表現しています。
パウロは、かつてはキリスト者を弾圧し、迫害を喜びとしていた人間でした。彼のそんな姿の根のところには、「タルソス生まれのユダヤ人」という歪んだコンプレックスが燻り、強い上昇志向が燃えていました。彼の原理主義的な律法主義は、容赦なき暴力を聖化させ、息を弾ませてキリスト者を殺害していたのです。それが、伝道者パウロのまぎれもない過去なのです。しかし、どうしたことか、いま、確かに、自分は、「キリストを宣べ伝える者」となっています。この「かつて、と、いま」を、どう説明しますか。あの過去を忘却することも、精算することもできようがないのです。自分に対しても、人々に対しても。ただ、「神の憐れみ」と語るしかないし、「憐れみによる自分」としか語り得ないパウロなのです。パウロの言葉を理解する時には、この彼の心中にある「自己の罪と神の憐れみ」の切り離せない関係を見ていく必要があります。
さて、「憐れみ」という語について目を移しますが、イエスが、苦しんでいる人々を見て抱かれた感情として用いられている「憐れまれる」という語は「スプランクニゾマイ」という語で、「内蔵が揺さぶられるほどの深い共感・痛み」という意味合いの語です。身体の奥底から突き上げてくる感情を表しています。神の「憐れみ」の最も深部にあるものだと思います。と同時に、「人を新しくしようとする働きかけ」、これも「神の憐れみ」です。わたしは「神の人間への憐れみ」を理解する際には、この「スプランクニゾマイ」と「エレオー」を共に結び合わせて受け止めたいと思います。吉髙叶