サムエル記下9 章1-13 節
メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。(サム下9:13)
今日の世界に現実に君臨し、この世界を荒らし回っている「この世の王」たちの姿を見ていると、権力と暴力に関するハンナ・アーレントの考察が実に的を射ていると思わされます。彼女は「権力の集中→他者との共同の政治の衰退→孤立→不信→暴力への依存」という政治的構造を論じています。(『全体主義の起源』『暴力について』)。
ハンナ・アーレントによれば、「権力(power)」とは、一人の人間が所有するものではなく、複数の人間が一緒に行動することで生まれるものです。ところが、支配者が権力を「自分が所有する力」と考えるようになると、その権力が失われそうになったとき、暴力に頼るようになると述べます。政治的に孤立した人間は、他者と一緒に世界を確かめることが出来なくなり、疑心暗鬼が強まり、独善と暴力的手段に走るようになるのです。アーレントが権力について考えたことを手がかりにすると、ダビデの行動や心理を別の角度から見ることへと導かれます。
ダビデはとうとう絶大な権力を手中にしました。権力を手にすれば、人は恐れが消えて、平安に政治に取り組めるようになると思えます。しかし、実際は逆なのかもしれません。権力を手にした人間は、権力を失うことを恐れ始めるのです。権力者は多くの人に囲まれながら、次第に孤立していくのです。事実、サウル王がそうでした。本当の政治的な力は、人を支配する力ではなく、そこに居る人々が信頼に基づいて共に行動するところに生まれるものですが、反対に、支配する力に頼れば頼るほど、そこには不信と恐怖が入り込んでくるのです。
本日の『サムエル記下』9 章は、ダビデがサウルの孫メフィボシェトの存在を知り、宮廷に迎え、王の食卓に日々連ならせたという、一見「美談」とも言えるエピソードです。サウルやヨナタンとの誓いを守り、その子孫を手にかけなかったという、ダビデの誠実(約束への忠実)とも取れる箇所です。けれども、見方を変えれば、謀反の種(因子)ともなり得るメフィボシェトを、エルサレムの宮殿で自分の管理下に置いたのだとも読めます。「神の箱をエルサレムに運び込み、自ら祭司のように振る舞ったダビデ」のエピソードと、「部下の妻を寝取って妊娠させ、その夫を激戦地に送って殺害するダビデ」のエピソードに挟まれた本日の物語を、わたしたちはどう読むべきでしょうか。吉高叶