サムエル記下22 章17-31 節
あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清く・・・(サム下22:26-27)
『サムエル記』上下巻を3 ヶ月間に亘って読みながら、サムエル、サウル、ダビデの姿を見つめてまいりました。特にダビデの「栄枯盛衰」、折々の心情に触れてきました。「詩編の詩(うた)」の作者としてのダビデは「悩みと苦しみの淵から神を懸命に呼び求める『信仰の人』」というイメージがあります。また、イスラエルの過去の繁栄とエルサレムの再生のシンボルとして憧れられたり、「約束のメシア」のモデルのように理想化されてきたダビデには「完成された人」のイメージがあります。けれども、今回『サムエル記』を辿り、その時代の攻防の中で、権力への欲望と失脚の恐怖に捕らわれる俗物としての赤裸々なダビデを見つめることを通して、「人間ダビデの善し悪し」を超えて、「聖書が私たちに問いかけている事は何」かを考えてきました。すると、それは今日、現代の世界を混乱に陥れている権力構造と人間の欲望の関係への連想にも導かれてきました。
本日の『サムエル記』22 章のダビデの歌は、ほぼそのまま詩編18 編の詩(うた)です。独立した詩(うた)として詩編で読んでいたものと、ダビデ物語の中に置かれた歌とでは、まるで感じ方は変わります。ダビデ物語の中でこの歌を読むと、どうしても「素直に神に感謝を捧げている歌とは読めない」感覚に陥ります。ダビデが自分のことを「正しい」とか「清い」と語る言葉に、どうにも居心地の悪さをおぼえます。でも、その感覚こそが大切です。22 章のダビデの歌を、「彼が波瀾万丈(はらんばんじょう)な人生を辿った結果、最後には神の前に純粋な気持ちで感謝を捧げた歌」と丸く収(おさ)めるよりも、ダビデという王が、自分の人生をどのような物語として装飾しようとしているか、つまり、ダビデの「神を誉(ほ)めながら、自分を褒(ほ)めようとした自己正当化の歌」としての性格を見据えておく方が良いと思います。
美しい歌の背後にある「人間の見苦しさ」は、彼に限ったことではないのですし。歴史編集者の意図は、ダビデの生涯を散々描いた上で、「ダビデは、この局面で、このような歌を歌う王であった」ことを記録しているのです。歴史編修者たちの「イスラエル・ユダ史」の記録は、このあと『列王記』へと続き、権力争いの一層の泥沼の様相を記していきますし、その結果としての「バビロン捕囚」だと言うわけですから、ダビデの美しい感謝の歌も「省みなければならない欺瞞的な信仰の姿」として歴史家たちは位置づけているということです。「ダビデ物語」はどうにも丸く収まらないのです。吉髙叶