申命記5 章6-21 節
わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(申命記5:6)
エジプト脱出を果たしたイスラエルの旅路の冒頭にあって、神が民に与えられたものが「十戒」でした。『出エジプト記』20 章には、民の代表モーセがホレブ(シナイ山)の山頂で神から「十戒」を授かるシーンが記されています。それからおよそ40 年後、イスラエルの民が荒野の彷徨いを経て、約束の地カナンに足を踏み入れようとしている時に及んで、モーセが再び民を呼び集め、「十戒」を語り聞かせます。それが申命記5 章です。
「十戒」は言うまでもなく、旧約聖書の中核に位置する戒めですが、新約聖書に重きを置くキリスト者にとっても、「人生の道標(みちしるべ)」として重要な戒めです。それは、うまく社会をつくるために設けられる法制度とは異なり、どのような時代、どのような価値観の中に置かれようとも、人間にとって不変(普遍)の「いのちの姿」を示しています。
「十戒」は「戒め」とありますから「○○してはならない」と訳されてはいるのですが、原文は直説法の否定形が使われいて、「殺してはならない」「盗んではならない」と訳されているところも、「あなたは殺さない」「あなたは盗まない」と記されています。原文のニュアンスをもう少し強く出すならば「あなたには殺すことができようか、できない」「あなたには盗むことができようか、できない」という感じです。つまり、これらは単なる禁止ではなく、神との関係性・神の恵みに生かされている前提から出発する応答倫理的な戒めなのです。ですから、この戒めには前提や基礎があります。それが「わたしは、あなたを奴隷の家から導き出した神である」という神の言葉が象徴的に示すように「人間の解放のために働いてくださっている神の御業」のことです。そうであるからこそ「人間の生というものは、『自由への解放』と『共に生きること』へのみ方向付けられているのだ」ということを言い抜いている、それが「十戒」なのです。
「十戒」には、「殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人に関して偽証をしてはならない、隣人のものを欲してはならない」とあります。人間にとってまことにその通りのことです。ところが、この世界は、富の独占、領土の侵犯、殺戮と戦争、環境破壊が国家レベルでなされていて、またそれらを正当化するプロパガンダに満ちています。殺しと盗みと偽証が世界に漲っているのです。「十戒」の戒めに生き難い人間の本質が、前もって「十戒」に映し込められているかのようです。吉髙叶