2025年12月14日礼拝「マリアの歌を、私たちも歌う」

ルカによる福音書1 章39-56 節

主は、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たされる(1:52-53)

キリスト教の「宣教」を考える時に最も大切な概念は「ミッシオ・デイ」(missio dei、神の宣教)です。宣教の主体は教会ではなく、神ご自身であるという思想です。教会が神を伝えたり教えたりするのではなく、また教会が世界(社会)に対して何か良いことをするというのでもなく、「教会は、神が世界の中で為しておられる和解と回復の働きに参与する存在なのだ」という理解、そういう立ち方のことです。
世界を見渡せば、戦争と暴力の連鎖が止まず、経済・生活の格差は驚愕するしかなく、弱い者・貧しい者の声は無視され、まさに「声なき叫び」が世界中に響いています。人間の命が重く沈むこの世界の中で、私たちは今日、マリアの小さな歌に耳を傾けます。それは、世間の往来で歌われた歌ではなく、ましてや権力者の前で歌われた歌でもありません。ガリラヤの片田舎の、名もない若い女性のささやかな祈りです。しかし、この歌こそが神の宣教=ミッシオ・デイの核心を示しています。「力ある方が偉大なことをしてくださった(49 節)」「その腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし(51 節)」「飢えた者を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返される(53 節)」。これらの動詞はすべて神が主語です。彼女は自分たちの力で世界を変えようと歌ったのではなく、神が動いておられることを歌っています。ミッシオ・デイとは、このマリアの視点です。世界の回復は人間の「企画」ではなく、「神の愛と神の義」が主語となる物語なのです。
マリアは、自らについて語ります。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった(48 節)」。まさしく神の宣教の物語は、力があり、声が大きく、有名な人によって推し進められはせず、その社会の中で霞んでいる存在に目を留め、用いて始められるのです。飢えている人々、戦争に痛めつけられた子どもたち、追われている移民・難民たち、その小さな叫びの中に神はすでにおられ、神の宣教は彼ら彼女らの痛みのただ中から始まっているのです。「傲慢な者が低くされる」「支配者が座から下ろされる」「貧しい者が高く上げられる」「飢えた者が満たされる」。それらは「いつかはそうあって欲しい」という理想の表明ではなく、神が救い主をこの世に送り、世界を和解と回復へと導かれる歴史が、確かに動き始めたという宣言なのです。マリアの小さな歌は、世界を動かす神の宣教の最前線の歌だと言えます。そして、今なお、そうなのです。吉髙叶

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