2026年11月1日礼拝「幸いな人-詩編1 編とイエスの逆説-」

詩編1 編1-6 節

いかに幸いなことか 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人 その人は流れのほとりに植えられた木。(詩編1:1-3)

『詩編』は「いかに幸いなことか」という言葉で始まります。この「幸い」という言葉は、ヘブライ語で「アシュレー」。「なんと幸いなことか」「幸いなるかな」という感嘆を込めた表現です。では、詩人は、どのような人を幸いな人として描いているのでしょうか。それは、神に逆らう者の計らいに従わず、罪人の道にとどまらず、傲慢な者たちの座に着かない人です。そして、その人は、神の教えを愛し(喜びとし)、その教えを昼も夜も思い巡らす人です。詩人は、そのような人を、一つの木にたとえます。水の流れのほとりに植えられた木。その木は、「ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」のだと。実に美しい比喩です。詩人は、神の教えを喜びとする人の人生も、この木のようであると言うのです。そして、3 節の最後には、「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす(栄える)」と記されています。神への深い信頼と、神に従う人生へのまっすぐな期待が表現されています。
けれども、ここで少し立ち止まりたいと思います。この「繁栄(栄え)」という言葉は、私たちが通常考えるような、経済的・社会的な成功や、健康や長寿、充実した人生のようなものを意味しているのでしょうか。また「幸い」とはそのことなのでしょうか。
私たちは、この詩篇の言葉を読みながらも、もう一つの現実を知っています。それは、必ずしも神に従う人がこの世で栄えるわけではないし、誠実に生きている人々が貧しく、正しく生きようとする人々が損を被っていることを。人々のために働き、誰かを支えている人が、報われないまま人生を終えることもあります。反対に、不正を働く人が富を築き、人を踏みつけている人が社会的な成功を収めることが多くあります。そうした現実を知っています。ですから、詩編1 編の言葉を、「信仰深く生きれば必ず現世で成功する」という「公式」のように理解することはできないのです。
では、神の教えに根ざして生きることの実りとは、何なのでしょうか。本日は、その問いを持って、イエスの言葉にも耳を傾けたいと思います。特に『ルカ福音書』が伝えている「イエスが語る『幸い』と『不幸』」(ルカ6:20-26)には、政治的・社会的な「強者」と「弱者」の逆転の構図が見えますから、そうした「イエスの逆説」と詩編1 編とを対話させながら「幸い」を考え、また「幸いなるかな」の声を聞いていきたいと思います。吉髙叶

関連記事

PAGE TOP