ルカによる福音書1 章26-38 節
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)
福音書記者ルカが伝えるマリヤへの受胎告知は、クリスマス物語の序曲としてアドベントの季節には深いなじみをもって受け止められています。また、静かで清らかなトーンの中に物語が進んでいる、そんな情景を思い浮かべます。しかし、その日その時、唐突な告知を受けなければならなかったマリヤにとって、この事件は、あまりに過酷で重々しいものでした。現実のマリヤの衝撃は激しく、その不安と動揺は超弩級でした。まだヨセフのいいなずけでしかないマリヤにとって「身ごもって子を産む」ことは過激なスキャンダルだったからです。
今日のわたしたちの理解とは異なり、当時のユダヤ社会では、結婚前に身重になるということは不道徳、非常識、反社会的、反宗教的な行為でした。「死罪」があてがわれることさえありました。マリヤにしてみれば、そんな立場に立たされることは迷惑の極み、あってはならないことです。マリヤは驚愕し、青くなって、断固として抵抗します。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」。
これは謙遜な辞退の言葉ではありません。遠慮のことばでもありません。また、いわゆる「そんな馬鹿な、信じられません」という疑いの言葉でもありません。拒否の言葉です。拒絶の言葉です。抗議の言葉です。「あってはなりません、やめてください!」
聖書は、神さまから「みこころ」や「召命・使命」が届いてくるときに、人間というものがどんなにうろたえ、抵抗し、拒絶するかということを随所に記しています。モーセは何度も何度も拒絶します。エレミヤも「私はまだ未熟です」と首を横に振ります。ヨナに至っては逃亡します。アナニヤもサウロを迎えにいくことに抗議します。いったい誰が、問題なく「神のしもべ」になっているでしょうか。みんな、抵抗するのです。神のみこころを迎えるということは、「すべてが願うように、穏やかに、進んでいってくれるように」と願いがちな人間の精神に、揺さぶりを掛けられてしまう出来事でもあります。クリスマスとて、実は人間が揺さぶられている出来事であり、神からのチャレンジなのです。「天使」は英語のエンジェルと親しまれ、背中に羽の生えた栗毛の赤ん坊のシメージも定着しましたが、ギリシャ語でアンゲロス、「告知者」という意味です。天使は私たちに「受け入れ難い道」を持ち込む存在です。私たちが受け入れ難くても「神のなさろうとすること」に向けて、私たちを招きにくる存在なのです。(吉髙叶)