2022年12月18日礼拝『「マリアの歌」を歌い継ぐ』

ルカによる福音書1 章39-56 節

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。(ルカ1:47-48)

老女エリサベトに続き、処女マリアの身にも「懐妊してしまう」という事件が起こります。ふたりのいずれも、突然「母親」にさせられてしまい、しかも相当スキャンダラスな状態に陥ってしまいます。今日の聖書記事は、その二人の女性の出会いの場面です。身を隠しているエリサベトのところを、ナザレから身を隠すようにしてマリアが訪問します。そして、二人は自分たちが母とされていくことの事実を改めて確認し、この出来事の意味を一緒に探していきます。エリサベトの腹の中で6 ヶ月になっていた胎児が踊ります。二人は、神がこの世界に今こそ介入し、その内側から新たな息吹を吹きかけていることを感じて喜ぶのです。「母親になる喜び」というより、神の業の胎動を身体で実感させられている「感動」と言えるでしょう。そしてマリアは革命的な歌を歌います。後々、「マグニフィカート」と呼ばれるようになる「マリアの賛歌」です。この歌は強いものと弱いもの、富める者と貧しい者、高貴な者と身分の低い者の「転換の歌」であり「逆転の歌」です。虐げられた人々にとっては「希望の歌」なのです。
二人の母親の物語は、単に、子を与えられ喜んでいる母の物語ではありません。ユダヤ社会の中で女性たちに求められ、「そうありなさい」「それが『母』の幸せ、『母』の役割」と枠付けされてきた「女性」や「母親」ではなく、「通常の女性」「通常の母」とはまったくかけ離れたかたちで母とさせられながら、それゆえに、社会的・宗教的逸脱(罪)を身に負うた人間の地平から、この世の不条理に神が介入してくださることを喜んでいる女性たちの物語なのです。マリアの歌は、まさしく「解放の歌」だとも言えます。
イスラエルの社会学者、オルナ・ドーナトが世に問うた『母親になって後悔してる』が各国で反響を呼んでいます。日本社会とは比べものにならない出産圧にさらされてきたイスラエルの女性たち23 人の告白の記録。決して子どもを出産したことへの後悔ではなく、社会が求める(決める)「母性」や「母親像」によって自分らしく生きることを犠牲にさせられてきたのではないか、という女性たちの正直な気持ちが吐露されているルポです。女性たちの言葉に対する共感もあれば、批判も多いようです。けれど、伝統、文化、風土、社会、通念で決められた枠組みや役割によって「自分を失ってきた」と感じる人々は確かにいて、生きづらさ・息苦しさを感じている現実があります。「マリアの歌」がそんな人たちと共鳴し、勇気を届けてくれたらいいなと、私は思います。(吉髙叶)

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