マタイによる福音書13 章24-30 節
僕たちが主人のところに来て言った。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」(マタイ13:27)
「神さまが本当にいらっしゃるならば、どうしてこの世界に暗い出来事やひどい事件が起こるのですか」。理不尽なことに対するこうした問いは、悩ましい問いです。この世に雑草のように生えている阿漕な仕業や悲劇を目にし耳にする度に、どう考えたら良いのかと苦しんでしまう、それが私たちです。
イエスは、毒麦のたとえ話を話してくださいました。小麦畑で必ず一緒に生えてきて刈り入れの時に分けるのに苦労する、迷惑な「毒麦」を用いてのたとえです。
私たちが生きる場と時とが「麦畑」にたとえられています。畑には、農夫(神)が収穫を期待して蒔いた麦の種が成長し穂を実らせます。ところがどういうわけか毒麦も生えてきます。農夫が期待して蒔いた良い実りの麦に混じって、口にすれば麻痺を起こさせる毒麦が同時に生え茂ってくる。農夫たちがいつも頭を痛め、苦労していた収穫の風景を通して、人間が生きる実際のことをイエスは語られています。
この世界は、神のいつくしみによって創造され、豊かな恵みがあふれ、命が美しく輝きを放っています。また、神の創造の祝福は、私たち一人ひとりの人間にあますところなく注がれています。命は尊く、美しいのです。けれども、この世界には、他方で不正や搾取、戦争や飢餓によってうめき声をあげ、悲しみと苦しみの声があがっていることも紛れもない事実として知っています。この世界は美しく、そして醜いのです。美しさと醜さの両面が世界にはあるのです。あらゆることに「表と裏」があります。たとえば、便利の反対のゴミ。快適の反対には浪費があり、使い捨て文化があります。最近のベストセラー『人新世の「資本論」』で、著者の斎藤幸平さんは、経済の「成長」という誰もが価値としてきたものそのものが環境危機・地球温暖化の最大の原因だと言い当てています。そのように相矛盾する事柄が混在し入り組んで成立しているのが私たちの現実の世界であり、まさにイエスがたとえられたように、一つの畑に良い麦と毒麦が一緒に生育している複雑な世界です。そして、その両方に足をつけて生きているのが私たちです。いえ、そもそも「なぜこの畑に『毒麦』が生えてしまうのか」と訝しがっている私自身は、果たして「良い麦」なのでしょうか。それに、私自身という畑の中にだって良い麦と悪い麦が同時に生えているのではないのでしょうか。悪い麦を引き抜いて始末したいと思っても、どれをどう抜いたらいいのでしょう。なかなかの難問です。【吉髙叶】