2022年7月17日礼拝「広さ、長さ、高さ、深さ」

 

エフェソの信徒への手紙3 章14-19 節

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり (エフェソ3:18-19)

本日の聖書テキストは、エフェソ教会に対する次のような祈りが記されています。
異邦人だからといって決して自らを(ユダヤ主義者たちが言うように)劣っている者・不足がある者だと考えたりはせずに、「心の内にキリストが住んでいる」人として歩み、また、無条件であなたを愛している神の愛に根ざし、その愛を「新しい人」としての自身の立脚点にして生きて欲しいということです(17 節)。さらに、キリストにある交わり(聖なる者たち)の一員として結び付けられた「その交わり」の広さ、長さ、高さ、深さが、どれほど大きく、また尊いかを理解して欲しいとも祈っています。
ここで注意が必要です。新共同訳聖書では(冒頭の聖書にあるように)「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」と訳されていますが、ギリシャ語原文には、その部分に「キリストの愛」はありません。むしろ、後半の19 節のほうにあります。すなわち「人の知識をはるかに越える“キリストの愛を”知るようになり」というのが正しい訳です。ですから原文通りに読むと、「広さ、長さ、高さ、深さ」は、神が結び合わせて造り上げようとしている共同体の「広さ、長さ、高さ、深さ」のことなのです。
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」と訳すことで、確かにキリストを讃える美しい響きが生じます。賛歌としては良いかもしれません。しかし、そちらではなく、教会共同体の幅の広さや出会いの不思議さ、また紆余曲折な歩みの意味性や未来に向かっての可能性を示唆している部分として(原文通りに)読みたいのです。もちろんキリストの愛の素晴らしさにかかる修飾句だと訳しても決して悪くはありませんが、実際的には欠けに満ちていて、分裂さえ生じかねない教会共同体に対する「期待と励ましの修飾句」だと受け取ることによって、自分たちの交わりの本質や意味を再確認する視点が授けられますし、この交わりが造られているのは、ただ「人知を超えたキリストの愛による」ことを知らされていくこととなり、交わりに対する謙遜へと導かれます。
たしかに、教会には様々な人が集められています。また、いろんな問題も持ち込まれます。一緒に歩むことに苦心することもあります。でも、それこそがこの交わりの「広さ、長さ、高さ、深さ」なのです。そこには、もはや人間の知識や感覚では計り知ることのできないキリストの愛が生きています。キリストの愛こそが、人間がつくろうとする「交わりの条件」を越えて、人と人とを結び合わせているのです。【吉髙叶】

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