エゼキエル書13章10-12、16節
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは 主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。(詩編147編10-11節)
東京オリンピックが終わった。オリンピックが必ずしもスポーツの祭典ではなく、また「平和の祭典」とは名ばかりの隠れ蓑であって、その実「政治や商売の祭典」であることは昔から誰もが感じてきたこと。それにしても、東京オリンピックほど「銭もうけ」という暗部(本音)が露呈してしまったイベントも珍しい。まさしく、「東京」というメトロポリスが、その正体を如実に現してしまったということなのかもしれない。
東京五輪への誘致に際し前首相が放った「放射能はアンダーコントロール」の大嘘。誘致プロセスでの金銭疑惑。IOC 会長のやりたい放題とJOC の人権感覚の乏しさ。新コロナ感染状況がどうであれ「開催ありき」だったシナリオ。そのため、ごまかしはぐらかし続けた首相の会見。大会中に廃棄された13 万食の弁当。軽んじられてしまった広島・長崎の原爆記念式典。選手のメダルをわが物のように囓じる政治家。「コロナ感染激化と五輪の因果関係は無い」と早々と言いのけた「吟味・検証の放棄」。「復興五輪」も「生命への配慮」も「おもてなし」も「コロナに打ち勝った証」も「平和の祭典」も、総てが弄ばれた言葉に過ぎなかった。この夏この国では、凄いことが起こっていたのだ。
スポーツ選手・アスリートたちが、自分の日頃の成果を競い合うことを非難するつもりはない。ただし、現代のオリンピックの獲得メダル数と各国のGDP はほぼ比例しているから、やはりこの祭典の影には「国力・経済力の競い合い」がへばりついている。「核兵器」も現代の人間が跪かせられている偶像の一つだが、こうした国家的「商業イベント」も現代の偶像の一つだろう。民衆を扇動し覆い尽くす虚栄のベールである。
詩編の詩人が記す「馬の勇ましさ・人の足の速さ」とは、古代では、まさしく軍事力と経済力のこと。人間はそれを競い合うが、神はそれを微塵も望まれてなどはいなかった。神が人間に望んでいるのは、「主を畏れることと、主の慈しみを待ち望むこと」。欲望の悪質さを痛み、謙遜を学ぼうとし、生命への畏敬を忘れず、神の慈しみを受け取り、他者にも慈しみを注ぐ人間の出現。神は常にそれを望んでおられるのだ。
「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。」(エゼキエル13:10)
「平和の祭典」が通り過ぎた夏。わたしたちは漆喰に塗り隠された「平和ではない事実」からこそ「平和を祈る」歩みを始めていかねばならない。【吉髙叶】