2021年4月4日礼拝「復活、喜ばしい“結局” 」

マタイ福音書28章1-10節


わたしたちの人生は、深く悲しい逆説を抱えています。それは、「人生とは、結局のところ『過去』に向かって進んでいるようなものだ」という逆説をです。
 どういうことでしょうか?
 私たち全てこの世にあって肉体をもって生きるものは、自らの死の時点から過去の存在になってしまうということです。たとえ人々の想い出の中に残るとしても、あるいは歴史に名が残るとしても、私たちの誰もが、自分の死によって過去の存在になってしまうのです。共に歩み、共に交わった経験も過去のものになります。愛し合った確かな時間も過去のものになっていくのです。
 死という場面を境にして、わたしは過去のものとなる。死は、一切を過去のものにしていく決定的な分岐点であるということです。そして、私たちは、誰しもが自分自身の肉体の死に向かってこの時間を生きているのであって、言うなれば「過去のものとなる時点」に向かって、今の営みを進めているのです。今の私たちは、誰もが明日以降を未来だと理解していますが、その未来は果てしなく続く未来ではなく、実は、未来には、延々と続く過去が待っている。そのような意味において、「人間の生は過去に向かって進んでいる」という、たいへん深刻な逆説を持っているのです。
 華々しい未来を予感し、信じて疑わなかったイエスの弟子たちや、共にいた女性たちにとって、思いもかけず自分たちの未来が一気に過去になってしまう、そんな事件が起こってしまいました。それが、主イエスの十字架での死でした。
 昨日まで、自分たちにとって素晴らしい未来の印だったはずのイエス先生が、今日は、過去の人になっているのです。イエスさまは、すでに過去の人になってしまった、信じたくないことでしたがそれが現実でした。

◇弟子たちの愛の結局
 12弟子たちの主イエスへの愛には、多分に彼らの「野心」が隠れていました。「この人は必ずユダヤの王となる方。そして自分たちは彼に仕える側近としてやがて主とご一緒に栄光を受ける。」そのような野心が潜んでいました。もちろん、主イエスへの尊敬と愛は嘘ではありませんでしたが、弟子たちの愛には「功名心」もいっぱい混じっていました。
 弟子たちは、そんな自分たちの愛が突然崩壊してしまうことを経験しました。そのような野心や功名心は、やはりどこかの時点で「裏切り」にかたちを変え、「逃亡」に道を取るものでしかありませんでした。
 自分たちのイエスへの愛とイエスさまへの随行を美しいものだと感じ、未来に開かれていると疑わないで来てしまった分だけ、彼らは粉砕されました。イエスとの歩みが、突然、一気に過去のものになってしまったとき、彼らは自分たちの愛の偽りとはかなさに、打ちのめされ、へたりこんでしまったに違いありません。
 自分たちの愛も未来も、十字架という恐ろしい場面で砕け散ってしまうものでしかなかったことを知りました。一切はもう過去。そして、イエスさまとの全ては、「自分たちの裏切り」という結末、そのような結局(結局という語は、多く副詞的に使われるのですが、独自の意味としては、「あげくの果て」「最後におちつく状態」のことです。囲碁でいうならば、打ち終えたこと。)を迎えてしまったのでした。
 ガリラヤからイエスと共に歩んでここまで来た数年間の豊かな旅路も交わりも未来への期待も、もう過去のこと。しかも結局、裏切りの決別でありました。裏切りのままの別れでありました。あまりにも空しいこと、あまりにも悲しいことでした。

◇女性たちの愛の結局
 主イエスと共に旅をしてきた女性たちは、心からイエスを慕ってきました。ある者は彼を息子のようにして、ある者は兄や弟のようにして、そしてある者ものは人生に光りをくれた先生として。弟子たちの野心とは無縁な、もっと純粋な愛をもってイエスの側に居て、女性たちは彼を慕ってきたのでした。
 けれども、ほんとうに悲しいことですが、そのような純粋な愛も、彼女たちを墓地に連れて行ったのでした。彼女たちは、愛の行き着く先として、結局は墓地の前で立ちつくすことになるのです。
 人間は愛するものと共に生きます。そんな愛する人と最後まで連れ添うことができ、共に過ごすことができる人はほんとうに幸いです。しかし、その幸いな人間の愛は、悲しいことに、いつかは墓の前に進み行かねばなりません。生きた愛の交わりは、墓の前で「ここまでです」と宣言され、終わりの時を迎え、もう、そうした愛し合う交わりは過去のものとなり、それ以降は墓の前で立ちつくすしかないのです。
 そして墓の前には、無情にも石が置かれます。墓穴(はかあな)を塞ぐ石は、交わりの終わりを宣告する壁、生きたものと死んだものとを遮断する、いかんともしがたい裂け目であります。「死の別れ」がある以上、人間のどのような真実の愛も、結局は墓の前に立たされるのです。

◇しかし!
 弟子たちの場合のように、人間の野心を含んだ愛のメッキがはがれて、結局崩れてしまうところで・・・!しかし! 女性たちのように、人間の純粋な愛が、「ここまで」と通せんぼをされてしまう、結局の悲しみの場所で・・・!しかし! そのような場所で、神さまの新しい物語が始まります。私たちにとっての、命と愛のほんとうの物語が始まります。
 人間の愛がダメになるところで、人間の愛が立ち止まってしまうところで、すべてが過去の出来事として逆向きになっていくところで、新しい出来事が響きます。新しい知らせが届きます。そして新しい未来が始まるというのです。それが、復活の朝でした。
 あの墓石。人間が「もっと愛したいのです」「できることならば愛し直したいのです」と願ってみても、「無理です。ここまでです。」と、全てを遮断し、全てを過去に押し返していた墓石(はかいし)が、転がされていたのです。そして、その墓石に神さまの御使が座り、こう言うのです。
「あの方はここにはおられない。人間に、おぞましく、また悲しい結局を突きつけてきた死、その死の場所に、あの方はおられない。あなたがたの『結局』は、決して結局ではなくなったのだ。恐れるな。そしてそれ以上悲しまないでいなさい。主イエスは過去の時間に閉じこめられてはいない。そして主イエスとあなたたちの歩みも交わりも、過去のものにはなっていない。ここにはいない。ガリラヤに先に行かれている。あなたたちも行きなさい。」
 人間の思惑や可能性や愛、その全てが終わっていくところで始まる「もう一つの現実」、それが神さまの御業です。神さまにはできないことがありません。そして神さまは私たちの命にとってほんとうに大切なことをなされる方です。主イエスはこの神さまによって甦らされたのです。それが告げられているのですが、あなたは、これを信じますか。3日目の朝。その陽射しの中で、彼女たちが招かれたように、私たちも、今朝、招かれています。
 心をこめて生きた愛おしい人生も、結局、墓の前に立ちつくす。その結局をあなたの人生の結局なのだ、と考え(そう信じ)達観して生きますか。それとも、わたしやあなたが、もう終わってしまうところで始まるという神の御業、そこに新しい結局があることを信じますか。そして、どちらの信仰によって、あなたの人生を生きますか。そのように問われているのです。

◇墓に背を向けて
 今日のメッセージの冒頭で、私たちの人生は、過去に向かって進んでいるような深刻な逆説を抱えていると話をしました。それは、言い換えれば、墓に向かって進んでいる(進路の前方に墓が待つ、遠くか近くかは別として、進路の先に墓が待つ)、そのような道だと言うことができます。
 しかし、今、女性たちは、墓を背にして出発します。墓に吸い込まれるのではなく、墓を背にして、生きた主イエスに向かって進路を取るのです。その行き先がガリラヤであることにも深い意味がありますが、何より、墓を背にして歩み始めることができることに、新しい人生の姿を見ることができます。
「進路に墓が待っている道」、それがいわば、過去に向かって生きる悲しい人生の道です。未来があるとしても、そのどこかで、人間の一切を過去のものにしてしまう死、そして墓。しかし、死人の中から甦らされ、墓の中から歩み出した主イエスこそが、彼女たちの目指す場所となりました。彼女たちの行き先は、よみがえりの主が先立たれて彼女たちを待っています。その未来は、一切を過去にしてしまうような未来ではなく、いつまでもいつまでも、わたしたちに未来へと招き続けてくれる、希望の主がおられるのです。この甦りのキリストに進路を取ること。私たちの人生が過去に向かって生きるものではなく、いつも約束に向かい、神の下さる永遠の御業に向かって道が延びていくことを示してくれます。
 弟子たちにもまた新たな行き先ができました。裏切りと逃亡。この背負ってしまったものに、もう捕らわれなくても良いのです。それはキリストの復活と共に軽くなっているのです。むしろ、もう一度、歩み直す道へと招かれているのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。
 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。
 よみがえりの主に結ばれているならば、わたしたちの苦労は決して無駄にならないので ある。」(コリント一15:54以下)

◇人生のオリエンテーション
 今日から新年度です。若者たちにとって入学、入社、新学年へと進み行く時です。そのようなとき、きっとどの学校でも、どの会社でも、オリエンテーションを行うと思います。
 「方向づける」という意味のオリエンテーション。もともとは、中世において、教会の礼拝堂を東向きに建てるという建築用語でした。礼拝堂を、東向きに建てるのです。なぜか、それは東の方角はオリエントと呼ばれ、太陽が昇る方角だからです。そちらに向かって、顔を向け、礼拝する。新しい光を仰ぐ。それが方向付けということです。
 そうです。復活の朝、新しい命の光が射し込んでいます。私たちは、その光の方に向かって人生のオリエンテーション、方向付けをしたいと思います。
 いまこの時も私たちの前に空しい結局を感じさせる墓穴が開いているかのようです。しかし、私たちの行き着く先はそこではない。向きは変えられる。主の復活によって変えられた道があることを信じて歩んでまいりましょう。「優しくあれ、そして勇気をもて」。人間としての優しさを宿しながら勇気をもって、復活の主イエスの先立つ道としての人生を歩んでまいりましょう。
 命の扉の開く朝。希望の扉の開く朝。イースターおめでとうございます。

◇祈り
 主よ、新コロナの霧の中にイースターの朝を迎えました。
 この一年の靄と霧の中で、私たちの社会が積み上げてきたものが崩れてしまう、そんな「結局」をいくつも迎えました。
 この一年の壁の中で、自分が地道に積み上げてきたものが破れてしまうという「結局」を味わいうなだれている方々がたくさんいます。
 主よ、ミャンマー民衆の血の叫びが響く中でイースターを迎えました。
 この十数年、苦しみながら立ち上がり、ようやくかたちにしてきた民主主義の社会が一気に踏み潰され、破壊されようとしている、そのような「結局」をミャンマーの民衆は味あわされようとしています。
 主よ、わたしたちの苦しい結局、あの方々の悲しい結局が、人間の結局なのでしょうか。 わたしたちは信じます。「死は勝利にのみ込まれた」。けっしてそれが結局では無いということを。すべてが空しいとしか思えない場所に、復活の主が起き上がり、立ち上がり、なおも生きる道を、なおも進むべき道を、指し示して下さっていることを信じます。ミャンマーにあって、「これが結局では無い」「これを結局にしてはならない」、そう信じてCDMの道を踏み続けている民衆に、主よ、かならずあなたの勝利の光が注がれることを信じます。すべての人々の人生の真実として、「闇は光に勝つことができず、命は墓に閉じ込めることができず、死は命にのみ込まれてしまったのだ」と、神よ、あなたが響かせてくださったこの言葉を仰いで、生きてまいります。主よ、あなたの御業と約束に感謝します。主イエスとあなたが讃えられますように。御国がきますように。
 甦りの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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