2021年4月18日礼拝「幸いである」

マタイ福音書5 章1-12 節


マタイ福音書5章冒頭に響く「幸いである」の一連のフレーズは、主イエスが語られた言葉の中でも、最もインパクトをもったフレーズだと思います。その響きには広がりがあり、読む度に心への届き方が変わります。それは、私たちの「人生の局面」が変わるからですが、その異なった局面の中でいっそう響き続ける深みをイエスの言葉は持っています。「幸いである」のフレーズは、人生を通して、繰り返し繰り返し、聞き直しつづけ、このことばの前に、励まされ続け、慰められ続け、整えられ続けられていくのではないでしょうか。
 けれども、そうした響きの広がり、意味合いの広がりを持ち続けながら、主イエスの言葉には核心(中心)があって、その中心を中心として聴かなければ、その言葉やフレーズの持っている底力のようなものには出会えないのではないか、とも思います。
 かつて、牧師になって間もなくの頃、当時のわたしがかなり尊敬していた静岡草深教会の今は亡き辻宣道牧師の講演を聴きに神戸教会にうかがったことがあります。その時の講演が、このマタイ5章冒頭の「幸いである」からでした。
 辻先生は、「こころの貧しきもの」とはどういう人のことだろうか。「悲しんでいる人とは」どういう人のことだろう。「悲しみ」とは何を悲しむことなのだろうか。「柔和な人」とはどういう、「義に飢え渇く人」とはどういう、「あわれみ深い人」とは、「心の清い人」とは・・・という風に、一つ一つの語の意味合いを考察しながら、「幸いな人の姿のイメージ」をとても丁寧に解いてくださったのでした。(たとえば「現代人の顔つきはどうだろう」と朝、駅前を足早に行き交う人々や、スーパーで買い物をする人々の顔つきなどを例に取りながら、「それらは柔和な顔つきとはほど遠いものです」とおっしゃったりなさりながら、「柔和とはどういうことか」について時代批判を加えながら解いてくださるわけですね。) なかなか興味深くメモをたくさんとったことを思い出します。そのように、「幸いな人の人間像」を尋ねて掘り下げていく豊かさもあるでしょう。事実、この箇所をもとに書かれた講演録や、説教はとても多いです。
 そのような人生論的な、人間像を探るような読み方も、それなりに味わい深いものだと私は思います。けれども、そこでもこの聖書箇所の「中心」を忘れていけないと思うのです。主イエスさまの想いは、そのようなものではなかったはずです。「心の貧しい人」とはどういう人なのか今日は考えてみよう、「何事かを悲しむその悲しみの感性」について今日は考えてみよう、というような講義やワークショップではなかったはずです。
 この「さいわいなるかな」はルカによる福音書にも記されていますが、わたしはルカに残されたフレーズの方がよりイエスの語られたオリジナルに近いと思っています。口語訳ではその違い、人称の違いを明確にして訳しています。
 マタイは、「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」彼らのもの、という風に三人称に、つまりより一般的になっていますが、ルカの方はは、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。」となっていて、はっきりと「あなたがた」という二人称で呼びかけられています。この二人称の呼びかけの響きこそが、イエスの宣言のオリジナルな響きです。マタイでは11節になって初めて「あなたがた」はと急に出てきますが、イエスのオリジナル性は後半に取り戻されたと言えます。
 やはり、そもそもこれは「あなたがた」への言葉だったのです。一般的な幸福論の講義、倫理学の講義ではなく、ご自身に従おうとする人たちへの宣言であり、もっと突っ込んで言えば十字架の道に従う生き方への招きです。と同時に、そのように生きる歩みとその人生が直面する厳しさと、しかしだからこそ受け継いでいくものを教え、祝福しています。
 イエスは、町々村々で、どこにいっても群衆に囲まれ、ひとしきり癒やしの業に忙殺されていましたが、突然、それらの業を中断され、人々の住む場所から退いて、弟子たちを連れて山に登ったのです。ご自身に従って山に登ってきた人々に向き直り、息を整え、息を込めて呼びかけたのです。イエスの足下に12弟子たちを含んだ「従おうとする者たち」が座っています。何も無い人たちです。少しばかりあったものも(家も仕事も家族も)とにかく横に置いて従ってきた者たちです。力はありません。知恵も言葉も備わっていないし、わかっているのかどうかも定かではない未熟な弟子たちです。にもかかわらず、彼らを待つのは厳しい拒絶と迫害です。何度も躓きを経験するでしょう。イエスさまは、それらのことをことごとくご存じの上で、ご自身に従う道にその人々をお招きになったのです。
 「私と共に生きる道に、あなたの人生の幸いを委ねなさい。神の国はあなたがたのものだ。あなたがたは幸いである」と。
 ですから、私たちもできれば「あなたがた」として、この言葉の前に座りたいと思うのです。イエスと弟子たちについての「報告」として聞くのではなく、「幸いである」のフレーズの前に「あなたがた」として共に座りたいのです。私たちもまた、この時代の中で、(その力が私にあるかどうかは別にして)「主イエスに従う者でありたい」、「そのように生きて行きたい」との願いを心に宿して、このイエスの呼びかけを聞きたいと思います。 求めるたいことはいろいろありましょうが、求めるべきことは「主イエスに従う」ということです。私たちは、自分の暮らしの場所をいただいていますが、その生活の場にあって「主イエスに従うようにして生きることができるものにしてください」と願うことです。また、この時代の曖昧さや面妖さの中にもてあそばれながらも、翻弄されずに、主イエスのみ言葉の中に、自分が生きることの意味や、隣人にとっての、人間にとっての「解放」のこと、すなわち福音とは何か、を見定めていくことができるようにと願うことだと思います。
主イエスに従おう、主イエスの言葉で「生きる」ということを見つめようとすると、私たちは貧しく、悲しく、低くさせられます。人間性をだいなしにし、人間同士の繋がりを引き裂くような現代社会のありさまの中で、また、あまりにも暴力的な力やごまかしの力が猛威をふるう現実の中で、私たちの心と魂が餓え渇いてしまいそうです。そこに沈み込む時、そこに心底渇いてしまう「心の貧しさ」を憶えるのです。
主の慈しみ深いまなざしの視線をたどりながら人々の苦しむ現実を直視するとき、私たちの心には悲しみが湧き出します。どうしてこんなことに人間が痛めつけられてしまうのか、そのような悲しみが溜まるのです。また、自分自身の小ささやふがいなさに落ち込んでしまう時、それでもなお、この私を憐れみ励ましてくださる主イエスに触れる度に、自分であることをそれでも良しとされた「かたじけなさ」から滲みだす柔和さが宿されるのです。
神の命の創造の想いを知る者として、この暴力的な世に直面するときに憶える義への渇きが起こります。震え、そして渇きます。思い悩む中から、しかしそのところで、頼るものが他に無いからこそ、他でもなく主イエスにこそ目を向けていくときの「清らかさ」、つまり「まなざしを定めるところに定める」ということ。そして十字架のイエスを仰ぎみることによって授けられる和解の祈り。主イエスに従う私たちがたどる葛藤と幸いは、人生の中で繰り返され、私たちは神の国の道をたどらされていくのです。それは小さい者の幸いな人生であります。
 今日、私たちは、山に連れ登られています。そして主イエスは「わたしに従って歩め」「わたしの言葉に根ざして生きよ」と招いてくださっています。あなたへの呼びかけ、わたしへの招き、それが「幸いである」のフレーズのほんとうの中心なのです。
 そして、この「幸いである」のフレーズには、もう一つ中心があります。それは、祝福の中に隠されている「隠語」だと思うのですが、「インマヌエル」つまり「わたしが共にいるから」あなたがたは幸いなのだ、天の国はあなたがたのものなのだ、ということです。
 わたしが共にいるから、あなたがたは慰められるであろう。
 わたしが共にいるから、あなたがたは地を受け継ぐであろう。
 わたしが共にいるから、あなたがたは満たされるであろう。
 わたしが共にいるから、あなたがたは憐れみを受けるのだ。神を見るのだ。そして神の 子と呼ばれるであろう。
 イエスが共にいてくださる。私がどうであっても。私たちが見せつけられている現実がどうであっても。そこにインマヌエルを、私たちは見ることができるし、それが「幸い」なのだと告げてくださっているのです。
 これまで、この箇所を通してのさまざまな講話を聴いてきたと申しました。しかし、未だに私の心に鮮烈に刻まれているのは、瀬戸内海のハンセン病療養施設・大島青松園の立つ丘の上で朗読してもらった「聖書そのまま」の響きです。
 「らい予防法」という悪法が幅を利かせてきた時代にハンセン病に罹患し、強制隔離され、病状に苦しめられ、差別され、社会復帰を閉ざされてきたハンセン病患者たち。そのような境遇を身に帯びながら、イエス・キリストを信じ、解放を待望して生きていた大島霊交会の信者たち。身体をゆすりながら大声で賛美歌を歌い、みことばに聞き入っていた、そんな人々との合同礼拝に、少年であった私が初めて参加した衝撃の日に、同伴していた教会学校の教師が、礼拝の後、大島の丘の上で朗読してくれたマタイの5章。なんの解説もコメントもなさいませんでした。でもこのフレーズが、その通り貧しく、その通り悲しみを背負わされ、その通りあらゆるものに飢え渇いてきた大島の人たちが、イエス・キリストと出会ったというその一点で、イエスがインマヌエルしてくださった自分であるという事実を知ったその一点で、ご自身の人生を呪うことから解放されて、喜び、讃美し、祈り合っているその事実の衝撃と、主イエスの「幸いである」という響きが重なったあの日の言葉の響き。それは、私にとって忘れようにも忘れられない響きなのです。
「心のへりくだった人はは素晴らしい」「柔和な人はとてもいい」。この「幸いである」のフレーズは、そのような人間性や人間像を勧めるような言葉ではありません。「私が共にいる」という主の宣言であり、「共に歩んでいこう」という呼びかけなのです。
 貧しさ、悲しみ、飢え渇き、その一つ一つに、「私が必ず共にいるから」と身を捧げてくださるイエスのインマヌエルがあるから、十字架の苦しみを味わい尽くすほどに我らの苦しみに先立ち、我らの悲しみに先立ち、そこに共にいてくださる主イエスがにおられるから、だから、それらが「幸い」なのです。インマヌエル(神は共にいる!)こそが「慰め」であり、「憐れみ」であり、「満ち足り」であり、「受け継ぎ」なのだと思います。
 主はわれわれを山に連れ登り、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられます。人生にはそこから歩んで行く道があります。われわれがどうであっても、どのような時を生きていても、その道があります。ですから、「深い慰め」は、「たしかな励まし」は、「このうえない憐れみ」は、「わたしに従ってきなさい」という主イエスの招きと共にあるのです。
 今朝の話の結論は先週と同様です。私たちは、この暗闇の世を生きながら「にもかかわらず」インマヌエルを見る人となりたいということです。この私たちが、神が、そして主イエスが、共にいる私たちになっていけますようにと祈りながら歩みたいと思います。

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