マタイ福音書18章15-20節
聖書は交わりのために
旧約聖書も新約聖書も、交わりとか群れづくりの視点で記されている。しかも吹けば飛ぶような小さく危ういマイノリティ集団に対する導き、励ましとして記されている。
【旧約聖書】・・・出エジプトとは何か、何からの脱出なのか。せっかく脱出したのだから、近隣大国との関係に翻弄されてはならない。バビロニア捕囚という破滅は何故なのか。そのようなテーマを理解しないとなかなか読み取ることが難しい。
・大国の暴力支配、覇権主義的な世界観のもとから脱出し、神の言葉に根ざして生きる、吹けば飛ぶような小ささでも、神の養いをいただき、日々命をわかちあって生きるイスラエルという群れの形成していくということ。
・いったい何故、バビロニア捕囚という破滅の危機を、イスラエルという共同体は身に浴びてしまったのか。群れや交わりのつくりかた、あり方を間違ってしまったのでは無いのか。小さい交わりであるが故に、近隣大国の、強く大きく見える近隣諸国のその繁栄に誘惑され、そうなりたいと憧れ、神の言葉のもとで「兄弟姉妹」という歩幅で人間の交わりをつくる、というところから完全に飛んでいってしまったこと。このことの警告、このことへの反省という視点。
・旧約聖書は「反省の視点」で読まないとだめ。他民族・他部族との血で血を洗う戦争の場面も「反省の視点」で読むべき。ダビデやソロモンの栄光物語も「反省の視点」で。
あるいは、交わりや共同体や社会というものは、果たしてそれでいいのだろうか、という「検証の視点」で読まないと、旧約聖書は人間を別の方・支配者の考え方の方に導いてしまうのではないか
。
【新約聖書】 新約聖書は、もうそのまま「ちいさな群れ」のつながり方、あゆみ方を知らされるためのものです。ナザレ出身のイエスをキリストと信じている。十字架で殺された人を救い主と信じている。そんな馬鹿げたことをまともに信じる変な人たちだけれど。世間から石を投げられ、嫌悪され、危険視され、拒絶されている、そんなマイノリティ・少数者たちが、その位置にいながら(これ大事)、あくまでもその位置に立ちながら、しかし十字架で死なれたイエスの言葉によって交わりをつくっていく。イエスの言葉と約束に信頼して「兄弟姉妹」としての質感を残した(つまりヒエラルヒーができあがるような大集団組織の感覚に惑わされないで)、そういう身近でフラットな共同体を形成していくこと。そのことのために教え、励まし、導きを与えてくれるのが新約聖書。
・そのような小さな、しかしイエスのつながり方に倣いながら関わり合おうとする群れ。愛、つまり人の痛みに共感し、癒やしと慰めのために祈り、労し合う、愛という戒めを全ての中心においていく、価値観の中核に据えていく。そういう群れを大切につくっていく。この視点で読むのが新約聖書、いえ、旧約・新約全体を通して、読んでいくときに大切にしなければならない視点。
それは、個人の道徳や倫理という個人の人格形成や人生観の問題でも無い。
あるいは天下国家のあり方、人間全体の姿を描いた国家論や世界論でもない。
「兄弟姉妹」という間柄の距離感を忘れない集団、しかも社会の中で力を持つわけでは無い位置にありながら、お互いの痛みを分かち合いながら、神の慈しみと憐れみをしっかりと感じあい、伝え合うそのような共同体づくりの視点、交わりの問題として読むべきが聖書だ(と私は思う)。
マタイ18章15節以下が今日のテキスト。交わりのためにはっきりと書いている箇所。
そのために用いられている「事例」は、兄弟の罪の問題。私の罪というよりは、兄弟、あるいは姉妹の罪の事例。
しかもおそらくその「罪」とは、交わりにとって、その群れを揺るがすような、あるいは群れが大切にしているものを蔑ろにするような行為。この群れを裏切ってしまうような、あるいは危険に導いてしまうような行為のことだろう。初代教会の交わりは、いつも危険と直面していたから、そういう類いの罪。そのたいへんな打撃を伴う難問を引き起こしている「兄弟(姉妹)」に対して、切り捨てたり、こっちから追放したりすることなく、幾重にもかかわり、つながろうとする様子が記されている。一人の逸脱行為を「わが事、わが痛み」として引き受け、向かい合う。どうにも力及ばないときには何人かの仲間に手伝ってもらって関わろうとし、それでも難しいときには交わり全体のこととして共有して、みんなで心配していく。それでもだめなら「異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と。これは読みようによっては見下した感があるけれど、おそらくは、「その人は御利益的な目的でイエスを信じようとしていたのだから、伝わらないということを諦めるしかない」というニュアンスだと思う。本田哲朗神父訳では、「異邦人や徴税人として関わりなさい」となっていて、立ち位置や視点が異なるゆえにわかり合えることが無いけれども、そのような人として関わり続けよう、人間としての関わり方で追いかけ続けないで、それ以上は神に委ねていくというニュアンス。つまり、このフレーズの力点は、一生懸命、幾重にも関わっていこうとすることにある。
イエスを救い主と信じる。信じ続ける。それはこの時代の中、なかなか難しいことだったと思う。そう、中には、御利益的な関心で加わってきた人々もいる。だから失望して離れていくこともある。逆ギレする人もいる。逆ギレして、ローマ当局に密告しようとするケースもあるだろう。そういう薄皮に包まれているような危なっかしい交わり。それが初代教会の偽らざる群れの葛藤であり、テーマだったのだと思う。その危なさを、どう乗り越えるか。規約改正をするか。組織強化を図るか。集団の中に仲裁裁判所をつくるか。そうではなく、交わりの危機をあくまでも交わりと関わりで乗り越えていく。そういうことだと思う。
18節からは、この世で人々と繋がっていくことへと視線が移っている。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」。これは初代教会(マタイ共同体)が自らの存在への励ましの言葉として受け取り明記した言葉。
「わたしたちが誰かをつなぐ」などと言うと、かなり上から目線だ。あたかも「つないでいく」主体や権能が「こちらがわ」にあるみたいである。ふつうの関係、対等・同等の関係性の中なら、こんなことを言うのは、それは「上から目線」に違いない。けれども、初代教会は、その時代にとっては対等に認められた存在ではなかった。この時代のイエス信者たちは圧倒的マイノリティ。見つけられたら捕縛され、存在を拒絶され、社会的つながりを断たれていく摘発と排除の対象である。そのような立場の人々が「自分たちが生きる場で、人をつないでいきなさい。イエスの御名によって交わりにつないでいきなさい」と受け留めているわけだから、とても「上から目線」などではない。なんとかして食い込んでいく。しかもおおっぴらな広報活動などはない。HPなどはない。出会いと言えば、暮らしの触れあいの中でふと出会った人、そして何事かに苦悩している人。そう「気になる人」「助けてあげたいなと思う人」。そんなた人の「しあわせ」や「解決」や「解放」のために、その人に繋がろうとし、関係を結ぼうとする懸命な「低みからのにじり寄り目線」なのだと思う。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる」という言葉は。自分が関わることは、イエスの心だ、天の神の関わりだ。自分が通り過ぎるということは、この人の上を天国が素通りしていくことだと、それくらいの気持ちで関わってみるべきではないのだろうか。わたしがこの人と関わるなら、その関わりの中にイエスがいる。キリストがいる。そんな風に勇気を与えられて、この人の中に、この人とのつながりの中に、イエスによる交わりを見ながら関わってみようとする姿のこと。
だから、今日の私たち教会がこのテキストを読むときにも、その初代教会の「存在性の座」をすっ飛ばかして「教会にこそ天国とその人をつないであげる鍵がある」などとうぬぼれて読んでしまうと、たいへんな倒錯状態に陥ってしまうのだ。転倒してしまった教会は実に多いし、教会がこの世を教え、教会が与えられている救いをこの世に分け与え、教会に導きいれることが救いの門をくぐることだ、と考えている教会は多いのだ。それは、イエスの言葉の読み間違え、聞き間違えだと思う。
話は変わるが、「つなぐ」という働きで、いま喫緊に問われている問題がある。これは「つなぐ」ために責任を果たさねばならないのではないか、という問題。いま、入管法(入国管理及び難民認定法)の改正(改悪)が閣議決定され、衆議院で審議されている。日本が「難民鎖国」であることはもはや世界の常識。同じ国での同様の難民申請理由で申請しても、諸外国に対して100分の1程度の認定率しか示しておらず(クルド人に至ってはなんと0人)、国連人権委員会からも国連難民高等弁務官事務所からも再三の警告・勧告を受けている。つまり国際社会のルールを守らず、その一員としての責任をちっとも果たしていないのだ。そうした中、難民申請して却下された外国人の97%が失意の中で帰国していきますが、問題は残りの3%の人々。どうしても帰国できない理由があって(本国に帰った途端迫害が待っている、とか日本での暮らしの中で家族ができた、子どもが生まれた、とか)、そういう人々は退去強制処分を受けても出国しないで、難民申請書を提出し続け、繰り返し不許可となり、宙ぶらりんのまま(それ故、無権利状態で就労も禁止されながら)日本に在留しています。その数およそ3,000人。今回の入管法改悪は、日本政府が、それらの人たちを刑事罰で処分したり、個々の理由を考慮せずに、裁判所の判断も必要とせずに入管庁の意のままに強制送還できるようにする「改正」です。これはだめです。
そもそも、この社会の外国人政策は、外国人をいっしょに時代や社会をつくる住民仲間として見ていない法制度。差別と偏見に満ちている。
外国人に門戸開放、といっても、技能実習生制度。本国で極めて貧しい生活を強いられているという弱みにつけ込んで、ブローカーを通して入国させ、入国の際に多額の借金を背負わせ(ミャンマーから入国した方々から教えてもらったが、北海道50万円、大阪70万円、東京100万円と)それが彼ら彼女らにとってどれほどの金額か。その借金を背負っている弱みにつけ込んで、低賃金での労働を強い、弱みにつけこんで生活管理をし、そして法律の制限いっぱいいっぱいになると、その弱みにつけこんで放り出し、また新しい労働者を雇い入れる。これ、体の良い奴隷制度。ミャンマーを例に取ると、このシステムを牛耳っているのが麻生太郎さんが会長の日本ミャンマー協会。ミャンマー国軍と、ブローカーとミャンマー協会が一本の労働者移送と引き揚げのルートを造って、その実入りを分け合ってきた。
人間を労働力として見なし、犯罪者予備軍として見なし、用無しの邪魔ものとして見なし、あげくは無慈悲な法律をあてがって犯罪者そのものにしていく。
一人の人のいのち、その存在が日本という土地に移住し、足を踏み入れる。しかし、その人たちのいのち・存在を受けとめる日本の重力、いのちの重力は極めて軽く、薄い。月面のようにふわふわしている。いのちの比重が軽い。
そう私たちの社会は、人間の命の比重が軽い社会だ。いのちをしっかり引きつけて守る重力が弱い世界だ。それは、外国人に対してだけで無く、多くの日本人のいのちも実は軽く扱われているのだ、ということをしらなければならない。
こうした中で、私たちは、つながなければならない。日本でしか生きることができないから、この社会にいっしょに居させて欲しい、と訴えている彼ら彼女らを「生きる場に『つなぐ』」ために、この入管法改悪をどうしても見過ごすことはできない。
私たちが、この一人をつなぎとめられなかったとき、わたしたちの方が、天上でつながりを解かれてしまうのではないだろうか。