~日本バプテスト連盟・「神学校週間」をおぼえて~
コロサイの信徒への手紙4 章2-6 節
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)
パウロがコロサイの人々に手紙を送った時、彼はローマにて軟禁され、鎖につながれていました。自由を制限されている状態、それが手紙の送り手の現実でした。
コロサイのクリスチャンたちがこの手紙を受けた時、彼らは三方から圧力を受け揺さぶられていた時でした。三方というのは、ユダヤ主義者からの「律法」や「割礼」回帰への圧力、グノーシス主義者からの「イエス・キリストによらずとも、すでに『天界』に属する者となっている」という自己理解の誘惑、そしてローマ帝国からの「皇帝崇拝を通してローマへの従属をあらわすことへの強要」の三つです。これが手紙の受け手の現実でした。その手紙の最終部分で、パウロは彼らに「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と励ますのです。
イエスをキリストと信じた人々にとって、その時代はかなり過酷なものでした。ヘレニズム文化もユダヤ主義もローマ支配も、すべてが壁のようでした。グノーシスの誘惑に誘われて「目をさまし間違えて」しまうかもしれませんし、ローマとユダヤからの圧迫の板挟みの中で「目を閉じて」しまうかもしれません。「目を覚ましている」ということは、置かれている現実の暗さと辛さの中で、何を見つめ続けていくかということであり、また具体的な攻撃と誘惑の中で、どこに立ち続けていくかということです。
ですから「感謝を込め」という場合も、人間的には感謝などできない状態にありながら、むしろ辛苦と傷みを浴びせられるばかりの状態の中にあって、(その状態をただただ甘んじて受けるとか、無理して感謝しようとすることなどではなく)神が共にいて、その苦しみと傷みをご存じであられることを信じ、また不義や理不尽からくる暗闇を神が打ち破ってくださることを信じて、「神を」感謝していくということでありましょう。感謝できる自分の状態の問題ではなく、「インマヌエル(神は共にいます)」の事実を感謝していく(目を向けていく)ということなのだと想います。それゆえ「ひたすら祈る」ということについても、現実との接触を遮断し内的空間に逃げ込んで自己を保とうとする衝動のことではなく、生きる事実・現実のただ中で、イエスの十字架と復活によって示された「神の想い」を聴き続けようとする生き方全体のことなのだと思います。立ちはだかる壁の中で神とつながること。この世の闇の中で十字架を見つめること。そして復活を仰いで立ち上がって行くこと、それが「祈り」といういとなみのことだと思います。【吉髙叶】