マルコ福音書 9 章 14-29 節
イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。(マルコ 9:29)
「ミャンマーを覚える祈祷会」に、時間を取り分けて参加するようになって 1 年が過ぎました。恐ろしくて、わからなくて、もどかしくて、どうにもならない気持ちを抱えながら祈りに繋がらせていただきました。しかし、この祈り会にわたしは守られました。この無力な自分が祈りの交わりの中で支えられていること、祈りの中で保たれていることを知りました。やがて訪れる「その日」というカイロスに、この無力な現在が支えられていることを信じることができました。恐れるばかり、嘆くばかりの自分自身が変えられていきました。祈りとは、神の恵みに与る憐れみ 溢 (あふ)れる道であると感じました。
神の恵みとは、わたしの願い事が叶うことではなく、分断させられたり分裂してしまっているものが再び結合されていくことであり、そのためにわたし(わたしたち)自身が変えられていくことです。清くないと言われていたものが清められ、必要ないとはじかれたものが大切に用いられ、外に置けと 遇 (あしら)われていたものが内側に招き寄せられていくこと。すなわち「名誉が回復され、尊厳が取り戻され、再び交わりに結ばれる」ことが「癒やし」であり「清め」であり「赦し」であり「救い」なのです。それが「恵み」なのです。そしてその神の恵みの業に参加し、恵みを味わえるような人間に変えられていくためには、わたしたちにはどうしても「祈り」が必要なのです。
ただし、物事を念じる強さが「祈りの強さ」だと受け取ってしまったり、逆に、「神がなさってくださる」のだからと、全面的に委ねて引き下がっていくことを「見事な信仰」だと思ってしまいがちですが、それでは「自分の願いが成就することが『神の恵み』だと考えている勘違い」がそのままなのです。こうした勘違いを溶かし、わたし(わたしたち)自身の感じ方や物の見方をつくり変えてくれるのは、ただ祈りだけなのです。
神は恵みの業を興(おこ)すために、ただご自身のみの力でなさろうとはしません。常に私たちの参加と協力を求め、それらを用いられようとします。そのわたしたちの為すべき協力こそが、自分自身が変わることであり、変えられながら「変革する」ため(分裂したものを統合するため)に働こうとすることなのです。そのために、わたしたちは祈るのです。
「この種のもの」とは分断・分裂させられた苦しみ、交わりを引き裂かれた悲しみのことです。イエスは言います。それらは「祈りによらなければ決して追い出すことはできない」のだと。「祈りによらねばできないこと」のために生きる者とされたいです。【吉髙叶】