使徒言行録28 章16-31 節
パウロは、・・・全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒28:30-31)
「イスラエルが希望していることのために、自分はこのように鎖につながれているのです。」このパウロの言葉は、側にいたルカ(『使徒言行録』の著者)の心に焼き付きました。この時のパウロはローマ皇帝の裁判を受けるために軟禁状態に置かれ、足に鎖をはめられていました。ただし、その時の状態のことだけでなく、「イエスがキリストだ」と証ししてきたこれまでの人生に常時付き纏ってきた迫害、危難・艱難のことも総括して「鎖につながれてきたような人生」と言っているようにも思います。けれども、パウロのこの言葉の中には「不本意ながら」という無念さや、「一刻も早く鎖を取ってくれ」という嘆願のトーンはちっとも感じられません。むしろ、ここにこそ彼の喜び(「居るべき居場所に居るのだという『落ち着き』」)を感じるのです。「鎖につながれる」とは、パウロにとって「迫害の事実」を示していること以上に、イエス・キリストに捕らえられた恵みと喜びを表していると言えます。「主イエスが十字架に張り付けられ打ち付けられたように、自分は、その主イエスに鎖のようにつながれている。イエスという『まことのイスラエルの希望・まことの神の約束の印』に結ばれてしまった自分は、もうそこから逃れることはできないし、離れたくもない。それに、誰もキリストの愛から自分を引き離すことはできないのだ。主イエスにつながれて生きる、ここにほんとうの自由があるのだ。そして、たとえ人を鎖につなぐことができたとしても、この世のどんな力も、神の言葉、神の愛、そして神の国を鎖につなぎとめることはできないのだ」と。
ルカは、『使徒言行録』を締めくくるにあたって次のようなフレーズを選びました。「パウロは・・・全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」。実際には軟禁状態にあり、囚人の徴・足の鎖をはめられているパウロですが、ルカはその人の中に「真に自由な姿」を見たのでした。鎖を操るローマ帝国の権力の中で、「自由」の意味を問い、この書物の結末部分で響かせるのです。
『使徒言行録』の記録は、ここ28 章で終わります。パウロは、それから2 年後(紀元64年)、ローマに燃え盛った皇帝ネロのクリスチャン大迫害の中、命を落とします。斬首と火あぶりがイエスを信じる人々に襲いかかりました。しかし、「キリストはあの十字架と復活のイエスです」と信じる信仰は、あらゆる「妨げ」を超えて人々に広がって行くのでした。『使徒言行録』29 章からは、多くの人々の人生に渡されていったのです。【吉髙叶】