2022年7月10日礼拝「隔ての壁をよじ登る」

エフェソの信徒への手紙2 章14-18 節

キリストはわたしたちの平和であります。敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げ。(エフェソ1:4,10)

前回の宣教では、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して・・・」(エフェソ1:4)と記された言葉を通して、わたしたち誰もが、すべての存在が、その存在性において絶対的かつ留保なしに「肯定」されているのだという宣言を聴きました。「存在への肯定」としての神の愛は無条件の愛です。
けれども、わたしたちが生きる様々な場所・場面で、いのちの存在性に条件を付けたり優劣を設けたりする力が横行していることも事実です。「神の創造の秩序」を振りかざすことによって、人間の欲望する秩序を制定したがるキリスト教の古い伝統は、往々にして「存在への無条件の肯定」という「神の愛」をねじ曲げてきました。参院選を前に、神道政治連盟の集まりの中で弘前学院大学教授の楊尚眞(キリスト教会の牧師)さんが『静かなる有事・同性愛と同性婚の真相を知る』と題する講演をおこない、同性愛を容認してはならないとの論陣を張りました。同性愛の指向は生まれつきのものではなく後天的なもので、家庭環境や親子関係、社会の様々な要因の影響によって「なる」もので、それは病気であり、治療することができるし、治療を促さねばならないという主張です。この社会やキリスト教が抱えるひどい現実が可視化された出来事でしたが、この事実の報道によってふたたび多くの人びとが自己存在を否定され傷んでいます。
人間の性的指向や性的アイデンティティーは決して「男か女か」という二分法によって分けられるものではなく、多様・多彩なグラデュエーションのように存在しています。それは人がその存在性において与えられている祝福です。その「あるがままの自分」が「異常」であり「病気」であり「治療すべき」存在であると否定され、断罪される場所。教会は永らくその最も強烈な「場所」であり続けてきました。けれども、「わたしがわたしのままで、ここに居ていいですか?」と問いかけてくれた人たちによって、自らの誤りに気づかされ、自らがしがみつき振りかざす「信仰理解」の中に他者を傷めつける棘があることを知りました。神の愛が「無条件の愛」であると語りながら、条件だらけの場面をたくさん持っていることにも目を向けさせられてきました。悔い改めたいです。
キリストはわたしたちの中にある「隔ての壁を取り壊し」(エフェ2:14)てくださると聖書は語ります。そのキリストの想いにわたしたちの心の綱を結んで、「隔ての壁」をよじ登るようにして歩んでいる教会でありたいと願うものです。【吉髙叶】

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