マルコ福音書 14 章 32-42 節
もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。(マルコ 14:41-42)
「目を覚ましていなさい」。イエスのこの言葉は、マルコ福音書において、一つは神がこの世界を最終的にしめくくられる「終末の日」を待つ姿勢として弟子たちに向けて語られます(13:32 以下)。そしてもう一つは、捕縛(ほばく)を前にしてゲッセマネの園で祈られる際に、同行したペトロたちへの呼びかけとして語られます。いずれも「時(カイロス・決定的な時)」に向かい合う態度として語られています。「目を覚ましている」とは、「神の時(カイロス)」を見つめ続けることであり、神の御心を自分の中に迎え入れる闘いをするということです。そしてそれは実に苦しく、また悲しい闘いでもあります。なぜなら、
神の御心は私たちの願いと必ずしも交わらないし、その「時」もわからないからです。
それはイエスでさえ、恐れ、もだえ苦しんだほどのことです。「死ぬばかりに悲しい」とイエスが語る悲しみは、何と向かい合う悲しみだったのでしょうか。何を迎え入れる悲しみだったのでしょうか。また、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られた「この苦しみの時」とは、どのような苦しみのことだったのでしょうか。それは単に、まもなく処刑される悲しみのことではないし、これから待ち受けている 嘲 り(あざけり)や処刑の苦しみのことではないように思えます。イエスにとって、この時の祈りは、最後の命乞いとしての祈りではなく、彼さえ身悶えるほどの「神の御心の姿」への苦悩だったのだと思います。
幼い頃から律法と預言書に親しみ、さらにそこに示された神の民への愛の真意を自ら体現しながら生きてきたイエス。貧民につながり、「罪人」にふれあい、病人に寄り添い、祝福を伝えた人生。狡猾(こうかつ)な指導者たちに毅然(きぜん)と対峙し、神の心を彼らの正面に突きつけて歩んだ道のり。神を心から信頼していたイエスは、その自分の生の結末が「神の沈黙」であることに怯えています。神の御心のあまりの有り様(よう)に、イエス自身が悶絶(もんぜつ)しているのです。この悲しみは、イエスが十字架で息を引き取る時の叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」につながっていきます。神の沈黙は最後まで徹底的に 貫(つらぬ) かれていきます。
「もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」。イエスがゲッセマネで聴いた神の答えは「沈黙」でした。「神の御心は『人の子(救い主)が罪人たちの手に引き渡される』ことにある」と、もうイエスは呑み込んだのです。 【吉髙 叶】