イザヤ書27 章2-6 節
わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。(イザ27:5)
神の願い、それは「ぶどう畑」のような世になることでした。神がイスラエルの民に届けた律法―それは、限りある存在(息する土)として神の前に謙遜に立ち、何より神と息を交わし、さらに他者との間で和らかに息を交わしながら生きる道であり、そのために守らねばならない節度や越えてはならない境界などを教えた戒めのことです―を大切に守り、政治においては公正を、司法においては誰にも忖度せずに義を貫き、とりわけ弱い立場の人々が保護され助け起こされていく社会を形成していくことでした。それが「神のぶどう畑」の風景でした。
前回読んだ5 章では、イザヤは「にもかかわらず、ユダ社会は『酸っぱいぶどう』ばかりを実らせる社会になってしまった」と、神の怒りと悲しみを民の指導者たちに突きつけました。「このようなぶどう畑を神はもはや顧みず、放置し、外敵に荒らされ放題になさるだろう」と預言します。実際に、ユダはそれから100 年以上に亘って、近隣国の興亡(アッシリアの拡大、エジプトの抵抗、メディア、リディア、新バビロニアの競合)の中で右往左往し、依って立つ「芯」を失っていきます。あげくの果て、B.C.589 年にエルサレムは陥落、以後「バビロン捕囚」への道を辿るのです。イザヤが預言者になったのがB.C.736 年のこと。40 年間にも亘る預言活動も糠に釘、その後100 年に及ぶ迷走の末にユダは滅びます。「外敵に荒らされ放題になさる」という予告は、ユダ自身が「外敵」を入れ替わり立ち替わり迎え入れ、自己崩壊していくというかたちで現実となるのです。
本日の箇所を含むイザヤ書24-27 章は「イザヤの黙示録」と呼ばれていて、早くともバビロン捕囚以後に記されたものです。つまり5 章の「ぶどう畑の歌」から140 年以上後の時代です。迷走の果てに崩壊を経験したユダに対して語られたこの黙示預言は、先の「ぶどう畑の歌」とは打って変わって、ユダがふたたび麗しい「ぶどう畑」へと変えられている様子が謳われています。主なる神自らが畑の番をし念入りに手入れして、たわわに実が実った「ぶどう畑」になる夢です。うち萎れた民に、慰めと励ましを届けようとする優しさに満ちた預言であり、神がシャローム(和解)を呼びかけ続けてくれている「赦しと招き」の預言です。このように、預言者が憐れみ深く語りかけてくれる時代や場面があります。他方、預言者が厳しく警告を語りかけている時代や局面があるのです。預言者の響きを、いまどう聴くか。それが預言書を読んで生きる私たちの課題です。吉髙叶