ルカによる福音書8 章16-18 節
ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。・・・光が見えるように、燭台の上に置く。(ルカ8:16)
新約聖書に収められている福音書は4 つ。それぞれ書かれた年代や地域を異にしています。それぞれの共同体が、自分の時代や地域の中で「いま、自分たちは、イエスのことばをどう聞くか」と対話しながら編集されていますので、同じ伝承エピソードやイエスの語録やたとえ話であっても、配置する場所が違ったり、編集者が補足した言葉も違っています。ですから、「どう聞くか、イエスの言葉を」「どう生きるか、イエスの光を」という真剣な対話から生まれた各福音書の響きを、わたしたちも「どう聞くか。どう歩んで行くか」という関心をもって読んでいきたいと思います。もう一つ、新約聖書のすべての文書は「共同体」の文書であり、「わたしたち」の歩みと交わりを創っていくためのものです。ですから、いっしょに読む、こちらも対話しながら読むという読み方が大切になってきます。「いつでも、どこでも、誰にでもあてはまる真理」とか、「誰とも関わらずにでも知ることのできる真理」として「教理・教説」のように固めてしまうのでなく、「いま、ここで、わたしたちに届けられる語りかけ」として共に聖書に向き合おうとする時、聖書はいつも新しく、時に驚くような気づきをもたらしてくれます。ぜひ、ご一緒に聖書を読んでまいりましょう。
さて、本日からしばらくイエスが語られた「譬え話」を通して福音を聞いてまいります。譬え話は、「言いたいこと」を聞き手に直接に伝える話法とは異なり、聞き手の感覚や類推からの理解を呼び起こす話法ですから、言うならば聞き手の側がその「聞き方」を問われていくことにもなります。イエスはそんな「譬え話」を多用して語られました。そしてルカ福音書には、他の共観福音書には登場しない独自の譬え話がたくさん盛り込まれていて、イエスが神の国の福音を人々に実に印象的に語られる様子を証言しています。本日の「ともし火の譬え」と直前の「種を蒔く人の譬え」は、ルカの譬え話群のトップバッターの位置にあり、たとえ人にどう受け取られようとも、神は「御国の福音の種」をおおらかに蒔き続けておられることや、また神の義や愛の光を、人間が覆い隠すことはできないことがこめられています。そしてイエスは、「福音の訪れ」を拒否したり、耳を塞いだり、聞き間違えたりする人々の妨害のただ中にあっても、諦(あきら)めることなく、怯む(ひるむ)ことなく、神の国の宣教に突き進んでいくご自身の覚悟を、これらの譬え話の中にこめているように感じます。(吉髙叶)