ルカによる福音書22 章14-23 節
イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは節に願っていた。」(ルカ22:15)
過越(すぎこし)の小羊を屠(ほふ)る除酵祭(じょこうさい)の夜。主イエスは弟子たちと地上での最後の食卓を囲みました。ただし、イエスだけが「最後の食卓」になることを知っていました。間もなく自分の身体は当局に拘束され、処刑される。身体を裂かれ、血を流して息絶えていくことになるだろう。けれども、その「命」こそが、弟子たち一人ひとりの新しい命となり、新たな原点となり、また生命力の源となっていくのだ。そのことを弟子たちの記憶に遺(のこ)していくための大切な食事だったのです。イスラエルの歴史とイエス自身の存在の位置、そしてご自身の生(死)と弟子たちの未来との関連を示し、意味づけながら「過越の食事」をすることを、イエスは切に願っていたのでした。
イエス自身、幼い時から毎年この「過越の食事」に与(あずか)って育ちました。出エジプトの出来事によって解放されたイスラエルの歴史の意味について、少年は洞察し続けたことでしょう。「人は何から解放されなければならないのか。」「人は何から何に向かって脱出しなければならないのか。」イエスは、そこに注がれている神の想いを探ねながら育ちました。それが、後々の彼の言葉をつくり、彼の独特の業や、慈しみに満ちた人々との関わり姿をつくっていったのです。
この日、除酵祭の夜。イエスご自身、この渇いたパンと葡萄酒に、ご自身の命の意味を重ねられていきます。もう間もなく、捕らえられ処刑されていくことを、彼自身が噛みしめ、また飲み込んでいく食事でもありました。この貧しいパン(酵母なしのパン)を裂きながら「わたしの命はこのパンだ」と伝え、葡萄酒の杯を手渡しながら「わたしの死はこの葡萄酒。わたしの生と死を受けて欲しい、記念として生きていって欲しい」と願ったのです。自分の命を弟子たちの命の中に遺そうとし、自分の死を弟子たちの新たな命となさろうとするイエスの最後の関わり、最後の言葉、最終的な交わりでした。
弟子たちは、翌日の十字架と三日後の復活の経験を経て、この最後の食卓の意味がどれほど濃密なものであり、また重要な晩餐であったのかを知りました。裂かれたパンと注がれた葡萄酒に、人間の背任と残酷が固められ、同時にイエスの赦しと愛が絞られていたことを知りました。不信と裏切りの火種(ひだね)をすでに灯(とも)していた自分たちのために、それでも愛し抜くしるしとして、それでも招き続けるしるしとして、パンを裂き杯を回したイエスの信実、命がけの関わりを見たのでした。【吉髙叶】