創世記4 章1 ~ 16 節
主はいわれた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」(創4:10)
本日の聖書テキスト(創世記4 章)・いわゆる「カインとアベル」の物語は、なんとも受けとめにくい物語です。多くの昔話が有している「道徳的な教訓」を読み取ることを簡単に許してくれません。疑問に満ちています。読み手に安堵感を与えず、むしろ感情を不安定にさえしようとします。そもそも物語の経緯が理不尽です。神は弟アベルの献げ物に目を留められたのに、なぜ兄の献げ物には目を留められなかったのでしょうか?さまざまな解釈・説明がなされてきました。アベルは柔和で清純な性格であったが、カインは激しく闘争的な性格だったのだという説明。アベルは初子を献げたが、カインはそうではなかったという「献げる姿勢」のはなし。あるいは後の時代の「遊牧民族」と「農耕民族」の確執が逆流して、この物語に反映しているという「文明論」的解釈まであります。そうした説明の努力は、あくまでも人間が納得できるようにとの願望から出てきていますが、聖書はそのような理由についてはいっさい沈黙しています。ではいったいどう読めば、この聖書の物語に近づいていけるのでしょうか。
ただひとつの方法によってのみ可能だと思います。それは視座をどこに置くか(カメラをどこに置くか)ということです。「カインとアベル、そして神」という登場人物全体を第三者の目で眺めるような視座ではなく、自分自身をカインに重ね、カインの位置からたどっていく時に、この物語の出来事はまさに自分に突き刺さってくるのです。カインは殺人者ですから抵抗があるかもしれませんが、「カインの座」から逃げない、あるいは「カインの座」を身に受けること、このことでしか「この物語」は理解できません。
「カインとアベルの物語」とよく呼ばれてた物語ですが、主題をはっきりさせるために言い直すなら、これは「カインの物語」です。カインの苦悩と、その結果罪に呑まれてしまう物語です。いみじくも人間は「カインの末裔」などと言われますが、まさに「私たちは人間はカインなのだ」「カインはわたしのことである」というところで読んでいくしかないのです。すると、地の産物を得ることに多大な労苦を費やしながらもその産物に満足できず、自分を卑下しながらも自己愛に執着するあまり、怒りを燃やし、神(創造主)を嫌悪し、他者を憎み、ついには殺してしまう人間(カイン)の悲しい「あがき・もがき」が見えてくると思います。この大地は、人間(カイン=槍)によって流された多くの血に染まっています。殺されたアベル(息)たちの血が叫んでいるのです。(吉髙叶)