2023年4月2日礼拝「イエスよ、思い出してください」

ルカによる福音書23 章32-43 節

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)

十字架にかけられた、イエスと犯罪人の一人が交わした言葉が、なぜか深く心に残ります。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
通常の状態での問答ではありません。激痛と混濁(こんだく)、人間の限界状況の中で交わされている会話です。十字架刑に処せられてしまう犯罪(政治犯としての)を起こした二人の犯罪人。ローマから「見せしめ」として十字架に吊(つる)されています。信念を持って企図した反ローマ活動が失敗し、「ユダヤ独立の大義」を信じて起こしたのに、その群衆の嘲(あざけ)りの渦の中に晒(さら)されているのです。そうした無念と怒りと憎しみのかたまりのような状態の人間が、最期の最期に、残された力と意識を振り絞って口にしてしまう言葉は、イエスに毒づいた犯罪人のような恨(うら)みと攻撃の言葉なのではないでしょうか。
しかし、このもう一人の犯罪人は、自分の隣に、自分と同じ「この苦しみ」を味わっているイエスという男を見ました。自分たちは、犯した所業の故にこの報いを受けているのだが、そうではなく、ユダヤの指導者たちの陰謀とローマの残酷と群衆の気まぐれによって「この苦しみ」を被(かぶ)せられた人を見ています。それなのに、その場所で、こんなにも嘲られながら、それらの人々の「何をしているのかわからない愚かさ」を憐れんで、「赦し」を祈っているひとりの人を見ています。彼が最後に見た人間は、神と人々との「赦しの繋がり」をたった一人で祈っている孤独な人でした。自分たちが、力づくで成し遂げようとしてきた「大義」とその無惨な失敗への無念が溶かされてしまい、また包まれていくかのような、とてつもなく和(やわら)かで大きな言葉を、隣で吊されている男から聞いたのです。この人のまなざしの先に「御国(みくに)」があるのかもしれない・・・。
この犯罪人は、意識が混濁していく中で「裸の人間(すのじぶん)」になります。愚かで浅はかな人間として、またもはや死ぬしかない力無き人間として、残されたすべてを傾けてひと言を絞り出すのです。
「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」
ルカ福音書は、一人の犯罪人の最期の言葉を通して、人間が語りうる「最後の一言」とは何かを教えてくれているのかもしれません。(吉髙叶)

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