ローマの信徒への手紙5 章1-11 節
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。(ローマ5:1)
生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちは「この人が目が見えないのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスに尋ねました(ヨハネ福音書9:1 以下)。「目が見えない」というその人の個性を「障害」と呼び、マイナスなことだと決めつけ、また生半可に「神の義」などということを知っているものですから、これは「神の裁き」なのであって、それを身に招いたのは誰のせいなのだろうかと弟子たちは考えてしまうのです。でも、それがユダヤ人一般の「発想のパラダイム(枠組み)」でした。イエスは答えられます。「本人でもなく、また両親でもない。そもそも『罪の結果』などではない。ただ神の業が彼に現れるためである」と。あなたがたが「不自由」だとか、欠けているとか、不満足だと言って哀れんでいる彼は、しかも彼の人生を見つめようともしないで「罪」や「裁き」を押しつけてられている彼は、しかし実は神の慈しみと愛とを盛られている器であり、神の業(創造と祝福の業)を輝かせる豊かな存在なのだとイエスは語るのです。人間が振り回す「神の義」がいかに的はずれであり、神の御心をまるっきり捉(とら)え間違えてしまっていることと、それゆえに多くの人間が失われてしまっている事実を、イエスははっきりと語るのです。
間もなく、そう語ったイエス自身が、罪人の死に場所である十字架で、力無く、みすぼらしく、「罪人のひとり」に数えられながら死んでいきます。しかし聖書は証言します。イエス自身が信じたとおり、神は、そのイエスを祝福し、人々が見捨てて葬(ほうむ)った墓の中からよみがえらせたことを。十字架はあたかも「神の裁き」「義のもとでの罰」のようですが、実に神の新たな創造の業が現れるためのものだったのであり、十字架こそが、人間が弱さと貧しさから新しい力を生み出していく起点となっていったのです。神は「イエスの信」を祝福され、「イエスの信」のとおりにあらゆる人々を祝福しているのであり、「イエスの信」にすべての人を招いて、神の業を熾(おこ)そうとしておられるのです。
パウロが出会ったのは、神によって復活させられた、そのイエスでした。「神の義」と「義人たる人生」の追求者パウロは、そこにへばりついている「義人の罪」を思い知らされ、魂の奥底から自分自身を砕かれたのです。そして回心します。人は「イエスの信」のとおりに、神の祝福と慈愛とを受け止める受け皿となればよいだけのことなのだ。人間が救われるとは、ただ、それだけのことなのだと語り伝えたのです。(吉髙叶)