ヨハネによる福音書9 章1-17 節
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:3)
ある町に一人の盲人がいました。生まれつきの盲人でした。生まれつきですから、彼はこの「不幸」を過去に遡(さかのぼ)る何らかの因果(いんが)だと周囲の人々から言われて生きてきました。生きるために道端で物乞いをしながら、頭の上でささやかれる蔑(さげす)みや憐れみの言葉を浴び、心ない言葉は胸に沈殿(ちんでん)し、両親のことを恨んでみたり、不遇を呪ってみたり、自己否定の悶々(もんもん)さの中に時を過ごしていたのではないでしょうか。そんな彼が座り込んでいた道の傍らをイエスと弟子たちが通りかかったのです。彼を見た弟子たちがイエスに尋ねます。「先生、たとえば、このような生まれつきの盲人が不幸を背負い込むのはなぜなんでしょうか。誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか。」
通りすがりの人間の冷徹な会話です。通り過ぎていく人々の無責任な問答です。弟子たちは、あっという間に、人間的な思い込みによる勝手な価値判断を二つも三つも重ねています。盲人は不幸だと断定してしまっていること。それは罪の結果だと考えてしまっていること。そしてそれは過去の因果によるものだと思いこんでいること。その上、そんな「真理問答」のために、その盲人を軽々しく、通り過ぎながら、引き合いに出して材料にしているのです。この盲人にふれ合おうとするでもなく、彼を目の端に見て、「人間の不幸とその原因」について論じようとしたのです。人間がとかく犯してしまう、痛みや悲しみを負った人々への非情で無責任な「かかわり方」です。
イエスは立ち止まっておっしゃいます。「本人の罪でも両親の罪でもない。神の業が現れるためである」と。どういうことでしょう。よく考えてみたい言葉です。きっと、「罪」との関連でものごとを考えようとする思考や、「過去」との関連でばかり現在(いま)を理解しようとする思考(パラダイム)の枠組みを、根底からひっくり返しておられるのだと思います。「罪の結果でもなければ、過去の結果でもない」。誰もが、すべてが、未来の出来事から招かれている。何より、神がこの人になさうとする御業がある。とうぜんこの人も、そのような未来に対して生きているのだし、神の恵みと愛の中を生きているのだ。「結果としての現在(いま)」ではなく、「常に未来から招かれている現在(いま)」。それが現在(いま)を生きているあなたなのだ、そうイエスは宣言するのです。
「罪」に怯えながら「罪」にこだわり、まるで「罪」に取り憑(つ)かれているかのような「キリスト教」。そんな「罪思考」から、わたしたちは解放されていきたいと思います。吉高叶