ヨハネによる福音書6 章1-15 節
集めると、人々が5 つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、12 の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:13)
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいか」このイエスの問いかけにフィリポは「めいめいが少しずつ食べるにも200 デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。アンデレも「ここに大麦のパン5 つと2 匹の魚を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言いました。5000 人以上の群衆に食事を与えるなんてできっこない。それだけのパンを買うお金もない、あるのはパン5 つと魚2 匹、これでは何の役にも立たない。という事実が明らかになったのちに、この奇跡が起きます。何が起きたのか、5000 人以上の人が十分に食べたのです。残りのパンくずを集めたら12 の籠にいっぱいになったのです。この奇跡は、何の役にも立たないパンと魚が、それを用いてくださった主によって、豊かに有り余るほどの祝福となって行き渡った。イエスはわたしたちの養いの主であり、イエスこそ命のパンだというメッセージとして聞くことができます。すばらしいメッセージです。励ましです。
しかし、あえて申し上げます。どんなに僅かなものであるにもかかわらず、ではなく、何の役にも立たないと思われるにもかかわらず、ではなく、僅かなものだからこそ、何の役にも立たないものだからこそ、主は用いてくださるのではないでしょうか。神さまの前では、わたしたちはいつだって、わずかなものしか差し出せないのです。なんの役にも立たないほどのものしか差し出せないのです。だからこそ用いてくださるのです。
もう一つの別の話を思いだします。エルサレム神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2 枚を入れた貧しいやもめをイエスはご覧になった。そしておっしゃった。「誰よりも沢山いれたのはこのやもめだ」。聖書はこのやもめがささげたレプトン銅貨2 枚は、彼女が持っているすべてであったと、生活費の全部であったと記しています。しかしそれだけではないのです。このやもめは持っているすべてをささげる時に、自分のささげものがなんの役にも立たないほどのものだと一番よくわかっていたのです。「神さま、何の役にも立たないことは分かっていますが、持っているものをささげます。」やもめの心はそう訴えながらレプトン銅貨を投げ入れたのではないでしょうか。イエスさまはこのやもめの心を喜ばれたに違いないと思います。レプトン銅貨の価値は1 デナリオンの128 分の1、最も小さい銅貨です。関玖仁男