創世記27 章1-10,18-29 節
多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前を祝福する者は、祝福されるように。(創27:29)
「ストップ詐欺被害! わたしはだまされない」。毎晩6 時半過ぎからNHK でこのフレーズが呼びかけられる。いわゆる「なりすまし詐欺」「振り込め詐欺」の新手の手口が紹介され、注意が喚起されるのだが、その手口の巧妙さには毎晩びっくりさせられる。人の弱みにつけ込むにしても、犯人たちは「人の弱み」をどれだけ研究しているのだろう。
被害に遭うのはだいたいが高齢の方々で、「だましのストーリー」の筋書きは、その人の子どもや孫の失敗と窮地。子や孫を愛し気遣う気持ちにつけ込んで、多額の現金を持ち出させるのである。卑劣にもほどがあるが、人間はつけ込まれる弱さを、みんな持っているのだろうと思う。わたしたちは、このようなアラートが毎日のように鳴る社会を生きている。続く天気予報では、連日「熱中症にご用心!」。忘れる暇がないほどに頻発する地震。「注意、用心、身の備え」。「不信と不安」が生活感覚の中枢に練り込まれていく。
本日の創世記27 章は一種の詐欺事件。母リベカが次男坊のヤコブと結託して、夫イサクが長男エサウに譲り遺そうとしていた「祝福なるもの」を横取りする物語である。ヤコブは毛深いエサウに化けるため、子ヤギの毛皮を身にまとい、母リベカから持たされた父の好物を携えてイサクのもとにぬかずく。目が見えず、しかも臨終間近のイサクは、多少の違和感を感じるものの、疑い抜く気力もなく、流れに巻かれてヤコブに「祝福の祈り」をしてしまう。エサウになりすまし、父の衰えにつけ込んで、ヤコブは「祝福なるもの」を手に入れるエピソード。ここから何を学べというのか。詐欺の手口か?キリスト教会では、伝統的に「祖父アブラハムが神から与えられた『祝福』に、ヤコブは懸命にすがりついた。たとえ卑怯と言われようとも、それのかけがえの無さを掴んで離そうとしなかった。その一点に『ヤコブの理』がある」という風に価値づけて、この物語を読んできた。「神の祝福への熱心」、それが、都合の悪い部分を剥いて描き出した「ヤコブ像」であり、後のイスラエルの自意識ともなり、またキリスト教会の「信仰姿勢」の教育的モチーフとなっていく。しかし、「祝福」とは「カナンの土地(パレスチナ)を所有する」ことだというのは決して自明ではない。むしろ、それにこだわったイスラエルは、後の歴史を通して、波乱と戦禍とを身に引きよせ、崩壊の道を辿ることになる。
だから「祝福」として人間が定立してきたものを、捉え直す必要があるのだと思う。吉髙叶