2025年1月19日礼拝「蒼天を仰ぐがごとく」

マタイによる福音書5 章43-48 節

父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:45)

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とイエスは語ります。それに続いて律法に対する6つの「対立命題」を示されます。「律法はこう言っている、しかしわたしはこう言おう」とイエス独自の律法解釈を展開していきます。イエスはいつも人間を慈しみ憐れんでいる神の心を考えていました。この時、イエスの話を聞きに集まっていた人々も(直前の4:23-25 に書かれているような)罪人呼ばわりされていた下層の人々でした。イエスは「人間が律法のためにあるのではなく、律法が人間の解放のためにあるのだ」ということと「それゆえ、律法は硬直してはならない。人間の状態と解放に向けて受け取められなければならない」と考えていました。その想いがほとばしり出たのでしょう。
律法学者やファリサイ派の人々は、律法解釈を固定化させ、それを守れる人間と守れない人間を二分化し、正しい人と罪人とを明確に区分していました。そこには、善と悪、義人と罪人の境界線が設けられており、また救われる人間の範囲が定められています。しかし、イエスの対立命題を読むと、どうもこの境界線が取り払われようとしています。神の救いの及ぶ「範囲」が広げられようとしています。たとえ、表面的に律法に合致していても、見た目がどのように合法的であっても、イエスが見ているのは人間の内面に起こっている悪しき思いや、隠れたところに蠢(うごめ)いている傲慢や不遜のことです。人間には内面と表面の間に切りがたい連続性があって、それゆえ義人と罪人との境界などは決して自明のことではないことを言い当てていきます。律法は人間の手の中に操(あやつ)れるものではなく、人間を導こうとする神の想いですから、それは常に憐(あわ)れみ深く受けとめられなければならないのです。それこそが「律法を完成する」ということなのだと思います。
「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。この言葉を聞いていた群衆たちは、境目なく晴れ晴れと広がる蒼天(そうてん)を仰ぐように、神の存在に引き込まれていったことでしょう。それまで、律法に近づけない自分たちは神とも無縁なのだと言われてきた。しかし、いま初めて自分という存在が、神の慈愛(じあい)の抱擁(ほうよう)の中にあることへと拓(ひら)かれているのです。律法を授けた神は、この自分たちの人生を助けようとし、期待さえしてくれていることへと、群衆は引き込まれていくのです。吉髙叶

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