2025年4月20日イースター礼拝「復活の朝、壁は壊れた」

マタイによる福音書28 章1-10 節

すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。(マタ28:9)

わたしたちの人生は、深く悲しい逆説を抱えています。それは、「人生とは、結局は『過去』に向かって進んでいるようなものだ」という逆説をです。どういうことでしょうか?
私たちは誰もが、自分の死の時点から、過去の存在になってしまいます。たとえ人々の想い出の中に残るとしても、あるいは歴史に名が残るとしても、過去の存在になってしまうのです。共に歩んだ経験も、愛し合った確かな時間も過去のものになってしまいます。死という局面を境にして誰もが過去の存在となります。ですから、死は、一切を過去のものにしていく決定的な分岐点であり、生を分断する不可避的な壁だと言えます。ということは、私たちは誰しもが「過去の存在になる時点」に向かって生きているわけです。誰もが、今から後の時間を「未来」と理解していますが、その未来は果てしなく続くわけではなく、実は、未来のどこかで一切が過去になる時が来るわけですから、言うなれば、人間の生は「過去」に向かって進んでいる、あるいは「未来には過去が待っている」という、大変悩ましい逆説を抱えていることになります。
この逆説の悲しみが、イエスに従ってきた人々を直撃します。素晴らしい未来を予感し、信じて疑わなかった弟子たちや、イエスと共にいた女性たちにとって、思いもよらない事件が起こったのです。希望に満ちた未来が断たれ、全てが一気に過去になってしまった、それが、主イエスの十字架での死でした。昨日までのあらゆる「今」は、いつも期待のこもった未来へ向かう「今」だった。しかし、イエスが死んだ「今」は、全ての「未来」は過去となり、空しく振り返るしかない「今」となってしまった・・・。壁にぶつかり、壁に閉ざされてしまった、信じたくはないことですが、それが現実でした。
「結局」という言葉は、多くの場合、「結局~だった」と副詞的に使われますが、独自の語意としては、「あげくの果て」とか「最後におちつく局面」を意味します。人間にとって「結局」は死、「結局」は墓、「結局」は過去。それゆえ、人間は夜の闇に永遠に横たわるために生きるのでしょうか。そうではありません。神はこの「結局」を破られたのです。イエスをよみがえらせたのです。そして復活のイエスが、「おはよう」と呼びかけてくる朝が明けるのです。復活の朝、壁は壊れました。わたしたちの人生の「結局」は、死ではなく、過去ではなく、あくまでも未来と希望に繋がれていくのです。吉髙叶

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