2025年3月30日礼拝「出会う人の中に」

マタイによる福音書25 章31-46 節

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:40)

イエスがその人生の最後に語られた譬え話、それが「最後の審判の日(神が最終的にこの世界を締めくくられる日)」に人間を右と左に分ける話です。日中一緒に放牧されていても、夜になると山羊には暖を取らせるために風の吹かない場所に、羊は風通しのよい場所に寝かせるために、羊飼いは両者を分ける習慣がパレスチナにはあるそうですが、イエスはその情景を思い起こさせながら、「最後の時」の「分けられる話」をしたのです。「終末」や「最後の審判」の出来事、それはいつ来るのか、どんな様子なのか、など皆目知り得ることはできません。でも、「いつ来るかわからないこと」は「今のこと」だと言えます。「神の前に、人間は常にどのように立たされているのか」という問題なのです。イエスが伝えたかったことは、神の選びや祝福は人間の想定や自覚と著しく食い違うということ、人間の思いと神のまなざしとは「ずれている」ということです。
最後の審判者(神)は「王」として登場します。王は右側の人々を祝福して言います。「わたしが飢えている時に食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたから」と。でも右側の人々にその自覚はないのです。「いつ、あなたに、そのようにしたでしょうか? 」そもそも王に接触することなどそもそも考えてもいないのです。いつ、しましたっけ・・・。
他方、左側に分けられた人たちは、日頃から、最後の審判者の目に適い、自分が選びに価するのだという自負を抱いていたようです。ですから、「いつ、しませんでしたか? 」と言うのです。「いつ、あなた(王)は、飢えていましたか?」という言い分も込められていそうです。神のまなざしと人間の自覚や思い込みの「ずれ」はたいへん興味深いです。最後の審判なるものは、「いつ来るのか」がわからず、「どのような様子」かがわからない。おまけに祝福の場に入る「理由がわからない」のですから、何をすれば・どう生きれば良いのかも判然としません。とにかく謎、お手上げ、どうしようもないのです。そう、どうやら神の選びの場に入るための「方程式」は見いだせないようです。ですから、そういう「王(神)との接触」や「宗教的なゴール」を自分の方から目指したり意識したりすることそのものを止めてしまう方が良さそうです。ただ心に留めておきたいことは、「最後のことは今のことかも」という事と、日常の人々とのささやかな出会いを大切に生きている、ということなのかも知れません。吉高叶

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