フィリピの信徒への手紙1 章12-30 節
きょうだいたち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。(フィリピ1:12)
『フィリピの信徒への手紙』は獄中にあったパウロが、フィリピ(マケドニア州東部の町)のクリスチャンたちに宛てて書いた手紙です。パウロは現在のトルコの中部・西部とギリシャの東南部の各地を回って伝道を続けた人物ですが、その人生にあって、何度も捕らえられ、鞭打たれ、投獄されたと回顧しています。ただし、『使徒言行録』にはその投獄の記録が全て記されているわけではありません。パウロは最終的にローマに護送され、獄に繋がれましたが、その獄中で晩年に『フィリピの信徒への手紙』を書いたと考えるのが伝統的な理解です。けれども、ローマとフィリピの地理的な距離感(行き来するのが簡単ではない距離感)が、手紙の内容が醸し出す距離感(互いの使者たちが行き来している距離感)とは符号しないのです。わたしは、この手紙はパウロがアジア州のエフェソでの滞在中、獄中で書かれたものだ思います。執筆年代は紀元50 年代半ばです。
第二コリント1 章8 節以下には次のように書かれています。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていて欲しい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。・・・神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださった」。アジア州のエフェソで彼らが巻き込まれた騒動については、使徒言行録19 章に経緯が書かれていますが、アルテミス神殿がらみの商工人たちが町中の人々を扇動して起こしたパウロ排撃・リンチ騒動はかなり強烈なもので、パウロたちは死を覚悟したほどのものでした。そしてその際、期間はわかりませんが投獄もされたようです。その投獄中の手紙です。そういう状態の中で、よくこのような手紙が書けたものだと思います。なぜならば、「フィリピ書」は「喜びの書」というニックネームがつけられているほど、終始、キリストを感謝し、喜んで生きることが勧められていて、絶えず前を向いて歩むこと、キリストにある一致を大切にすることを呼びかけているからです。極限状態に迫られるに至って、かえって、パウロは危機を照らし、苦難を意味づける光を見ることができていたようです。死、しかも殺害されるという死に直面したときに、人に殺せるものと殺せないものがあることを感じていたようです。死をもってしても断たれない交わり、切れない繋がりを信じていたようです。そして、フィリピの仲間たちには、どうしてもそのことを伝えたかったようです。吉髙叶