民数記13 章1-3,17-20,25-33 節
主はモーセに言われた。「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を『偵察』させなさい。(民数13:2)
エジプトを脱出し、シナイ半島に彷徨い出たイスラエルの民は、半島の西側を南下し、シナイ山で「十戒」を授かり、今度は半島の東側を北上してカナンの地(パレスチナ地方)を目指しました。距離的には、カナンに間もなく到着できそうな地点に来たとき、神はモーセに命じました。「わたしが民に与えようとしていカナンの土地を『偵察』させない」と(「偵察」と訳されていますが「探し求めなさい」というのがそもそもの語のニュアンスなのですが)。モーセは、早速に「民の長」12 名を招集して次のように命じます。「その土地が、住民が強いか弱いか、人口が多いか少ないか、攻め落としやすいか否か、土地の産物は豊かかどうか。それを調べてきなさい」と。つまりカナン先住民たちの軍事的な側面と経済的な側面に強い関心を持ったわけです。しかし、ここにすでに、神の想いと人間の関心との間の深刻なズレが生じていたのかもしれません。ほんとうに神が「探し求め」て欲しかったのはそれだったのでしょうか。
「イスラエルの民をカナンの地に導き上る」というのは確かに神の約束の言葉です。「出エジプト計画」をモーセに命じた初発のところから、神は計画の目的をそのように語っています(出エジプト3:8)。ただし、必ずしも「カナンの先住民族たちを一掃して、その土地を独占的に支配させよう」などと神は語ったわけではないのです。しかし、モーセも民も、「導き上る」とか「与える」と言われて「独占的に所有すること」と思い込んでしまったのでした。それゆえ、モーセの指令は、まさに「偵察」命令でした。「偵察」は、対決する相手、敵対していく相手の現状を前もって調査することです。つまりは、「戦闘の勝利」や「排除と征服」を念頭に置いています。「勝てるかどうか、取れるかどうかを見てきなさい」と命令したわけです。当然のこと、遣わされた使者たちは、カナンの人々の戦闘力・防衛力ばかりを見てきましたし、その結果、一人を除くすべての使者が「とても敵う相手ではありません」と「撤退」を進言するのです。
神が見てきて欲しかったのはそれだったのでしょうか。そこだったのでしょうか。「相手」を敵対・打倒対象として見ていこうとするなら、わたしたちのまなざしは「偵察」になっていきます。エジプトの苦役と砂漠の不毛からの解放の喜びや、新たな場でのいくつもの可能性と、共存していく他者との出会いと発見の視点を失うのです。吉髙叶