2026年3月22日礼拝「ゲッセマネ(油搾りの園)で命を搾るイエス」

マルコによる福音書14 章32-42 節

「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マル14:36)

『マルコによる福音書』が描くイエスの姿は、病に縛られ、「悪霊」に縛(しば)られ、宗教制度に縛られ、権力構造に縛られ、罪人という烙印(らくいん)を押される恐怖に縛られて苦悩する人々に、神の国の接近と解放を届けるために、社会的・宗教的「境界」を越え「逸脱(いつだつ)」を恐れずに進んで行かれる姿です。反感を受け、妨害を受けますが、また弟子たちはイエスの心を誤解し続けますが、イエスは、小さないのちを祝福する神の御心から目を逸(そ)らさずその歩みを続けて行きます。ガリラヤという周縁(しゅうえん)から歩み始めたその道は、次第にエルサレムという宗教中枢(ちゅうすう)に向かっていきます。イエスの目的は必ずしも「対決」ではありませんでしたが、宗教的支配の矛盾と腐敗と詭弁(きべん)の事実を射貫(いぬ)かれて狼狽(ろうばい)する宗教特権階級者たちによって、命を狙われていくことになります。イエスは、自分に対する憎悪の増幅(ぞうふく)を強く感じながらも、エルサレムに進路を取ります。弟子たちに、自分の受難を繰り返し予告しながら、引き返すことなく道を進むのです。そしてエルサレム・・・。
形骸(けいがい)化し、商業化し、上辺(うわべ)を飾るばかりで、まごころからの神への祈りを喪失したエルサレム神殿で、イエスは身を挺(てい)してそれらの欺瞞(ぎまん)状態に立ち向かいます。偽りの礼拝所を否定し、偽(にせ)の礼拝を打ち壊すのです。しかし、この神殿での行為(ふるまい)は、「イエス殺害」を決定づけさせてしまいます。
自分への「殺害の空気」が飽和(ほうわ)状態のように膨れ上がる実感の中で、イエスは弟子たちと別れの晩餐をし、裂かれるパンとぶどう酒になぞらえて、ご自身のいのちの意味と普遍性を伝えました。また夜の園で激しく祈りながら、外から押し寄せる不本意な運命としてではなく、自分自身が選び取っていく道として、「処刑の死」を受けとめていくのです。神の御心と信じて語り、ふるまってきたこれまでの自分の歩みが、何を招くことになるとしても、それは神(父)の御心であることに深く沈潜(ちんせん)して、死の杯を受けていくのです。「油搾(しぼ)りの園」と呼ばれるその園で、神への信頼と、神と人間の信実の交わりのために、自分の命を搾るようにして祈ったイエスの祈り。それがゲッセマネの祈りです。
このイエスの祈りを、ローマ帝国支配の暗闇と迫害の中を生き抜いて行く自分たちの姿として、マルコ共同体は心に刻んでいきました。「神に祈る人間」としての尊厳を、「神の御心に委ねる人間」としての平安を、イエスから受け取って生きていたのです。吉髙叶

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