2026年3月29日礼拝「この人は神の子だった」

マルコによる福音書15 章33-41 節

イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マル15:34)

『マルコによる福音書』が描く「十字架上のイエス」は、他の福音書に比べて極めて端的で、またあまりにも静かで、それゆえにひときわ厳しいものです。人々の嘲りとからかいの中、神はどこまでも沈黙され、肉体を引き裂くような激痛と、見捨てられる悲しみの極限状態の中から、絶叫して息絶えていくイエスの姿、それのみを描くのです。
さて、イエスが、神と向かい合う時に「アッバ」と呼びかけていたことを「マルコ福音書」は大切に描いています(例:ゲッセマネの祈り)。神をアッバ(おとうさん)と呼び、信頼し、自分をも開いて関係を通わせていました。だからこそ、人々に対しても、親しみをもって招いておられる神を宣べ伝えていたのです。ところが、十字架上のイエスは、アッバとは呼ばずに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。もっともアッバにすがりつきたい時に、なぜなのでしょうか。その理由は明確です。イエスは最期のこの時に、「詩編22 編」を唱えたのだということに尽きます。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは詩編22 編の語りはじめの言葉です。当時のユダヤ人にとって、詩編の冒頭を口にすることは、その詩全体を想起する働きを持っていたと云われます。詩編22 編の流れは、「嘆き→嘲り→苦悩の極み→賛美への転換→世界へと広がる希望」となっています。たしかに十字架上のイエスのリアルは、見捨てられる苦しみですが、しかしこの詩の流れの全体の中で、自分の死を感じようとし、なおも神の計らいに自分を委ねようとしておられたのです。神は沈黙し続けます。自分はこのようなかたちで終わろうとしています。見捨てられる苦しみは間違いなくイエスのその時の叫びです。しかし終わらない神の御心と、閉じない神の国の支配の前に、「大声を出して、息を吐き出して」(15:37)絶命します。神と向かい合い、神の御心を信じ、神にすべてを返す。十字架の息絶えながらの叫びの姿は、イエスの祈りそのものでした。
マルコ福音書記者は、このイエスの最大級に悲惨な死の足下から、真の信仰告白が生じる様子を描いています。しかも、ローマの百人隊長の口から「本当に、この人は神の子だった」との告白が生まれます。支配領域のすべての人民に、自らのことを「神の子」と呼ばせていたローマ皇帝の最も対極に位置する「十字架」に磔られ殺されながら、なお神と向かい合い続けたイエスこそが、「本当に、神の子だった」と。ローマ支配と迫害の中を生きるマルコ共同体にとって、十字架はいのちを支える支点となりました。吉髙叶

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