マルコによる福音書2 章1-12 節
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(マルコ2:5)
町々を巡り歩いて身体や精神に重い疾患を抱えた人々を癒やし、捕らわれてきた苦しみから解放しているナザレのイエスが、この町に来ている・・・。カファルナウムの人々は浮き足立ちました。イエスに会うために、その話を聞くために、イエスの泊まっていた家に人々は押し寄せたのでした。
その町に、脳卒中の後遺症で身体が麻痺してしまった人がいました。それは重く辛いことでしたが、幸いなことに、彼には彼のことを何かと気にかけてくれる仲間たちがいました。その仲間たちは、彼をイエスのところに連れて行こうと、四人がかりで床ごと運んで行きました。ところが、イエスのいる家は外まで人が溢れていて、とても中に入ることができません。四人は意を決して家の屋上に登り、屋根を掘って大きな穴を開け、天井から床ごと病の友をつり降ろし、イエスのもとに運んだのでした。原文には「穴を掘り」と書かれています。当時の屋根は、木の枝を組み、練った土で覆って作られていました。板張りのように屋根を「剥がした」のではなく、まさしく地面を掘るようにして穴を開けたのです。屋内にいた人々は、土をかぶり大騒ぎになったことでしょう。しかしイエスは、その人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されました。イエスはこの五人の繫がりの様子に「神の恵みの器」の姿を見たのでした。
このエピソードを「マルコ福音書」の共同体はどう受け止めていたのでしょうか。ローマ帝国の暴力は凶暴さの極限にあり、「異分子」に対する弾圧支配の矛先がとりわけ「クリスチャン」たちに向けられていた時代です。人々は、自分に嫌疑がかけられることを恐れ、互いの監視と密告の中に、ずたずたに分断されていました。そのような社会の中で、「苦しみに共感し」「自分のこととして分かちあい」「置き去りにしないで共に生きていく」ことを共同体の生き方として学んでいたのだろうと思います。また、彼らに立ちはだかっていた弾圧と疑心暗鬼の壁。しかし、そこに穴を掘りながらイエスのいのちに繋がる道を進んでいこうと決意していたのだと思います。支配権力が人間の間柄を変質させ、自由と希望に蓋をしようとしてくるどのような時代にあっても、人と人とが共感の籠を編み、共に歩もうとするところには、神の恵みと解放の宣言が注がれる。
マルコ共同体と共に、わたしたちもこの「信仰」を抱いて生きたいと思います。吉髙叶