2023年7月2日礼拝『深淵の闇の中に「光あれ」』

創世記1 章1 ~ 25 節

神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。(創1:3)

本日より3 ヶ月に亘って『創世記』1 章から11 章(「原初史」と呼ばれます)を読んでいきます。そこで、はじめに「おことわり」をしておきます。キリスト教界の原理主義的立場を取る人々は、世界の創造の事実の出来事としてこの「原初史」をそのまま信じていて、自然科学の諸説に反対の意を唱えます。しかし、私たちはそのようには理解しません。「原初史」を含む『創世記』は、全般に亘って使用用語が異ったり文体の違ういくつもの断片資料が、入れ替わり立ち替わり巧みに組み合わされながら編まれています。一人の希有な人物(たとえばモーセ)が神の啓示を受けて書き記したものではありません。
イスラエルの12 部族ごとに口伝として伝わってきた様々な伝承が、他の部族の伝承と結合し、まとめられ、筆記されていく「伝承の歴史」。筆記されたいくつもの文書が組み合わさり編集されていく「編集の歴史」。何百年もの歳月をかけて織りなされたいくつかの系列の文書も、後に「とある歴史的大事件」に直面して更に大きくまとめられていきます。『創世記』もそのようにして編集されました。そもそもの口伝がいつまで遡るのかは定かではありません。かなり古い時代からの伝承でしょう。でもそれらの伝承やその後の諸資料を『創世記』のような形にまとめようとした「とある歴史的大事件」とは、まぎれもなくバビロニア捕囚です。つまり、捕囚という「神の民の崩壊」の出来事を深く問い直し、バビロニアからの解放や再出発の未来を仰ぎ見ながら、これらをまとめたのです。この作業にあたった人々(祭司たち)は、既に手にしていた資料・題材を分解し、再統合しながら、そこに独自の記述を付加したりしていますが、そのように付加した部分を「祭司資料」といいます。そして創世記1 章~ 2 章4 節前半までは祭司資料にあたりますので、編集時点で目的をもって書かれた文書です。自ら歴史的に直面した崩壊の虚しさと、神の憐れみによる再生の希望を創世記の冒頭に入魂したのです。
“世は混沌(カオス)としている。虚無に包まれている。暗闇に支配されている。けれども、神は言葉(ロゴス=想い)を発してくださる。「光あれ」と。「いのちの場が現れよ」と。「夜と闇とは朝の光を迎えよ」と。そして神は、それら「いのちの場」をひとつひとつ創造されながら「良し(トーブ)=ふさわしい」と語られたのだ。この神の創造の業は、いま新たに私たちの歩みを創り出そうとしておられるのだ。新たに生きよう。神に対して、ふさわしく生きよう。” これが編集にあたった人々が駆られていた想いでした。(吉髙叶)

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