イザヤ書7 章10-14 節
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。(イザ7:14)
「このまま停戦になって欲しい」と全世界の人々が願っていました。しかしその願い届かず、イスラエルによるガザ空爆攻撃が12 月1 日の朝から再び始まってしまいました。しかも今後は多くの人々が避難している南部への侵攻と言われています。いったいどれほどの人々の命が奪われていくことになるのでしょうか。
パレスチナでは人口の半分が子どもです。ですから死者数の半数は子どものいのちの数です。そして死んでいる大人たちの隣には、親やきょうだいを殺された子どもたちがいる、ということです。パレスチナでの殺戮は「子どもたちへの暴力」そのものなのです。そして、子どもたちへの暴力を正当化する理由など、この世界に何一つ存在しません。子どもたちのいのちが、世界(歴史)に問いかけているのです。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザ7:14)。この箇所は、後に「イエス・キリストの降誕を予告した預言」と理解されるようになり、待降節によく読まれるようになった言葉です。またインマヌエル(神われらと共にいます)こそが、キリスト誕生に込められた神の想いの核心として理解されるようになった言葉です。キリスト者がとても大切に心に留めている言葉なのです。
ただ、イザヤ7:14 のそもそもの原意は、「いま、みごもっている若い女性が男の子を産む。その子をインマヌエルと呼ぶ」という意味です。アラムとイスラエル連合軍から宣戦布告を受け動揺するユダの王アハズに対し、預言者イザヤが「狼狽えず、神を信頼していなさい」と呼びかける励ましの預言の一部なのです。危機的状況が迫る中にも、いま生まれ出てくる子どもがいる。その子どもは「神は共にいます」という厳然たるいのちの光を放っている。この「子どものいのち」の前で、「いのちの神」を仰ぎ、争いに走らず生き方を見定めよ、ということかもしれません。
ガザでは、いま、この爆撃の下でも新生児が誕生しています。その赤ん坊の誕生を嘆きと同情の中で見つめるべきなのでしょうか。それとも「神が、この赤ちゃんと共にいる。この赤ちゃんが生み出されているこの場所が、神の歩まれている場所なのだ。この赤ん坊が生きていける世界にならなければならないのだ」と感じるのでしょうか。その子に「インマヌエル」と名付け、「神よ共にいてください!」と呼び続けている女性たちの叫びを聞かねばならないのは、神ではなく、わたしたちなのではないでしょうか。吉髙叶