ヨハネによる福音書10 章7-18 節
わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:7,11)
主イエスが集まってきた群衆をご覧になって、「飼う者の無い羊のようだ」と深く憐れまれたと福音書は記しています。「深く憐れむ=スプランクニゾマイ」、それは「はらわたがちぎれるような悲しみの共苦」のことです。当時のユダヤ教指導者たちによって「罪人」呼ばわりされ、交わりから排除され、貧しいまま病気のままに放置されている人々の現実に直面し、イエスは、かつて預言者エゼキエルが、「放置され、打ちひしがれている民衆のために、もはや神ご自身が羊飼いとなって動き始めのだ」(エゼキエル34 章)と語った預言を念頭に置きながら、「だからこそ私は、この飼う者の無いような人々の中にいて、共に歩む羊飼いになろう」と、心に誓われたのだと思います。イエスの下層民衆への憐れみとは、はらわたからねじり出された悲しみに根ざした気持ちであり、イエスの「はらわたの痛み」は、彼の人生を十字架の道に追い込んでしまうほどの決意(覚悟)となっていきました。
「わたしは良い羊飼い、良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。それは、羊が屠られ葬られているこの時代に、その屠られていく場で羊の命にかかわる闘いを、わたしはする。自分自身が葬られても、羊の命と共に生きる」そのような思いがイエスの決意でした。
「羊飼いの目・まなざし」とは、羊そのものの命の様子を見るまなざしだと思います。羊を、今日も活き活きと生きるべき命として見つめているのが「羊飼いの目」です。しかしそうではなく、羊を見て、「いい羊毛だ」「立派な生け贄にできる」「食べ頃の肉だ」などと見ているとしたら、それは商売人や強盗の目なのです。エルサレム神殿の境内で、ここは強盗の巣のようになっているとイエスは喝破し激怒します(ヨハネ2:13-17)。神礼拝の諸々が、人々を食い物にし、むしろ人々を落胆させ疲れさせているではないか。イエスは「ニセ羊飼い」たちの吹く角笛が「福音の音色」では無いことに怒っています。
「福音の音色」とは、人々に「理想の人間像」や「正しい人間像」、「立派な人生像」を指し示して教えることではありません。「福音の音色」とは、「あなたはそのままで愛されているよ」と知らせることです。「現実のあなたが、神に受けいれられているよ」と知らせ、また「あなたはけっして一人ではない。一人で苦しまなくていいのだ」という響きなのです。イエスのまなざしさ深い憐れみに満ちています。またイエスの決意は命がけの覚悟に満ちています。イエスの吹く角笛の音色は優しく、激しいのです。吉髙叶