2025年7月13日礼拝「ひもじい心、ひもじい社会」

民数記11 章1 節~ 17 節

エジプトでは魚をただで食べていた・・・。今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。(民数11:5-6)

民数記11 章は、イスラエルの民がシナイ山を離れ、約束の地カナンに向かって旅を開始した直後の出来事を記しています。シナイ山で神から律法を授かり、神の臨在の象徴である幕屋を中心とし、雲(神の意思)に従う共同体として組織されたばかりの民が、旅に出た途端、直面する荒野の現実に直面し、早くも不平不満を漏らし始めるのです。この「荒野における神への不満」の様子は、民数記全体に何度も繰り返されていきます。
荒野での不満の常は「食べ物・飲み物」のことでした。その際、民が口にしたのは、「エジプト時代は、ただで魚や野菜が食べられていたのに」という言葉です。これは、心理学で言う「記憶の美化」、あるいは「バラ色の追憶」の典型的な例だと言えます。イスラエルの民はエジプトでは奴隷でした。過酷な強制労働に喘ぎ、生まれた男児は殺されるという不条理な苦しみの中にいました。しかも400 年間も。その苦役からの解放を神に叫び求めたからこそ、神は心を動かして「出エジプト」という奇跡的な出来事が起こったのでした。奴隷民たちが支給されていた極めて貧相な食物に、たとえ魚や野菜が混じっていたとしても、それは「ただ」ではありません。それは彼ら彼女らの自由と尊厳を強奪した対価としてあてがわれた「奴隷の餌」だったのです。しかし、荒野での単調かつ不確実な日常に直面したとき、民の心は過去の苦しみを忘却し、都合の良い記憶だけを鮮やかに再生します。過去を理想化することで、私たちは現在の満たされない思いや将来への不安を一時的に麻痺させようとするのです。イスラエルの民は、まさにこの心理的罠に陥っていました。
「マナは食べ飽きた」と民は叫びます。マナとは何でしょう。それは、何もない荒野で、神が天から与えた恵みの食糧でした。それが無ければ、人々は一日たりとも生き延びることはできなかったはずです。マナが降ってきた当初、人々は驚き、歓喜して感謝したことでしょう。しかし、恵みも奇跡も、毎日続けば日常になり、日常はやがて当たり前になり、「当たり前」は感謝の対象から不満の対象へと転落します。どんなに素晴らしいものを与えられても、慣れてしまうと幸福感があっという間に不満に変質してしまうのです。しかもその感情はみるみる民全体に伝播してしまいます。「荒野の不満」、それは人間の「胃袋の空腹」のことではなく、「心のひもじさ」をテーマとしています。吉髙叶

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