ヨナ書4 章1-11 節/ ルカ福音書15 章25-32 節
主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」(ヨナ4:4)
『ヨナ書』4 章には、主の命令に抵抗してきた「ヨナの怒り」がはっきりと言葉化されます。今回は、その「ヨナの怒り」に、ルカ福音書15 章のたとえ話「放蕩息子」に登場する「兄の怒り」を並べ見てまいります。この両者の怒りは、異なる時代と文脈にありながらも、驚くほどの共通構造を持っています。いずれも、神(たとえ話では「父」)の憐れみ・慈しみが、自分の外に及ぶことへの拒絶という共通テーマを持っています。
敵国アッシリアのニネベが滅ぼされずに赦されてしまったこと。この時のヨナの心境は「絶望」です。4 章には「死にたい」という彼の言葉が3 度も繰り返されます。「敵には死を(滅びを)! そうでないなら自分に死を!」「相手が生かされるなら自分は生きていたくない。」「自分が生きる世界に、相手の存在はあって欲しくない。」強烈な排他的な感情です。これは、ヨナの個人的不満というよりも、イスラエルの宗教的独占意識を象徴しています。また、「神の憐れみ・慈しみ」が、自分の抱いてきた「神観」を覆すものとして体験されるときのパニックが表されていると言えます。
『ルカ福音書』15 章には、罪人や徴税人を受け入れるイエスに対して強い不満を述べるファリサイ派の人々や律法学者たちに向けられた、イエスの三つの譬え(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)が並べられています。「放蕩息子」の兄は、律法的正義を体現する存在として描かれ、父の無条件の赦しに怒りを覚えます。「何年もの間、従順に働いてきた自分には、このような報いは一度も無かった」と、兄は「義務(従順)と報酬の均衡」を前提とした「不正義」を怒っています。自分の信じてきた「神」(正義)が覆されてパニックを起こしているのです。そして、この「神観念」、「神と自分」「神と自分と他者」の関係の中に、自分の思いと外れる出来事を体験しては怒り、自分が守られる「神観」を振りかざそうとする人間と、そこに起こる絶え間ない対立が映し込まれています。
ところで、双方の物語に共通していることは、神が二人の「正義」に対して「そうかなぁ」と問いかけていることです。「その怒り、そうかなぁ」「あなたの信じているもの、そうかなぁ」と。これは、ヨナ書と主イエスに共通する重要なトーンだと思います。双方の物語とも、登場人物の最終的応答を描かずに物語を閉じています。あとは読む人々に開かれていくのです。時代を越え、人間の内面に、その問いは届けられています。神を考え、正義を求めている現代の私たちにも神は問いかけています。「そうかなぁ」。吉髙叶