コヘレトの言葉3章11節・エゼキエル書 37章1-6節
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレト3.11)
人生に対する炯眼(けいがん)に満ちたコヘレトの言葉には「何事にも時があり」というフレーズで始まる有名な一節があります。私たちの人生に起こる様々な出来事は、「なぜ、その時なのか」については多分に謎に包まれ、自分の理解を超えています。しかし、人間は「時と共に、歳と共に」歩み方や向き合い方、受け取り方や味わい方が変化しますから、「ふさわしい時」を「ふさわしく生きる」導きの中に、私たちは招かれていると言えます。
若い時になせることがあり、年老いてからしかなせないことがあります。何事にも先ずこちらから、と行動していた時もあれば、あちらから来るものをゆっくりと受け止め、噛みしめたり味わったりしていく時も訪れます。やりたいことをやれていた時もあれば、やりたくても思うに任せない時も来ます。自分の考え、自分の感覚をいつも頼みにして生きている時もありましたし、相手の身になって考えていくことができるようになる時も来ます。鋭く反応することができていた時もありますが、熟成した感性で受け止め、深く思慮を巡らせることができる時もあります。それらのどの時も、貴重でかけがえのない「わたしの時」です。「老い」もまた、深い人生が創られる恵みの時、しかも尚も「旅路の途上の時」なのです。
「人生と時」について思い巡らせる上で大切なことの一つは、私たちが地上の上で経験するあるゆることは「神さまが最もふさわしい時に起こるように定めてくださった」ということを「信仰的に承認する」ことだと思います。だからこそ、その直面した出来事に、もっともふさわしく向かい合いつつ、時に適った生き方が導き出されていくのではないでしょうか。もう一つの大切なことは、神さまは私たちに永遠を思う心を授けてくださっている、ということです。先週は「視座」や「視点」や「視線」のことをお話ししましたが、これは「視野」をどう取るかということです。神さまの大きな御心やお働きの視野の中で自分の経験や道のりを位置づけて、自分の今の意味を受け取り直すという姿勢のことです。しかし、三つ目の大切なことですが、それでもなお、私たちには知り尽くすことができないということも承知していくしかないのです。が、それこそが、神の時を待つ、神が明らかにしてくださる出来事を待つ、という「待望の業」を自分の今の時の業としていく生の態度へと私たちを導いてくれるのです。【吉髙叶】