2022年4月3日礼拝「権力者の苦悩」

マルコ福音書15 章6-20 節

群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。(マルコ15:14-15)

ポンティオ・ピラトはローマ帝国中央政府から属州ユダヤに送り込まれていた総督(そうとく)です。彼の上官には、更に広域なシリア州を監督する総督がいましたが、ローマ帝国にとって何かとやっかいで処し難い(しょしがたい)ユダヤ統治の担当者はローマ皇帝直轄の人事でした。皇帝ティベリウスの最側近(そっきん)であったセイヤヌスがピラトの後継者であったとも言われています(歴史家フィロンによる)。ピラト自身、権力欲の強い野心家で、抜擢(ばってき)されたユダヤ総督の任務で評価を受け、出世街道をたどり、ゆくゆくは元老院への入閣を夢見ていたことでしょう。福音書は、イエス裁判の際に見せるピラトの「ためらい」を報告していますが、それはイエスへの同情心や良心によるものではないでしょう。彼は、イエスに対しても、あるいはユダヤ宗教界に対しても、なんの興味も無かったと思います。ピラトが気にしていたのは、ただローマ中央政府でした。
暴動が起きる。それだけで、統治者にとっては「致命傷」となります。この時、ピラトが秤り(はかり)取ろうとしていたのは、ユダヤ指導者たちとユダヤ群衆の「怒りの熱量」でした。そこに理が無ければ無いほど御し難い(ぎょしがたい)。理屈が通らない。ユダヤを数年間統治して知った経験から、ピラトはこの些細(ささい)な「妬み(ねたみ)」事件が、しかし下手をすると暴動につながりかねないという予感を嗅ぎ(かぎ)取ったのです。
時に、ローマ中央では、セイヤヌスの権力が強大になりすぎたことを嫌ったティベリウス帝が、突如(とつじょ)としてセイヤヌスを誅殺(ちゅうさつ)するという事件が起こります。セイヤヌスとのパイプが裏目に出ることになったピラトは、いよいよ慎重に保身を計らねばならない時だったでありましょう。つまり言いたいことは、「ピラトの『性格』の問題ではない」ということです。ピラトという権力者の置かれていた政治的位置(その論理と心理)の問題なのです。そしてそれは、どの時代どの社会にあっても権力者にあてはまる「弱点」であり「アキレス腱」なのです。この場面、イエスがピラトの前に立たされ、イエスが裁かれているようであって、しかし実は、ピラトがイエスの前に立たされ、彼の本性(脆弱(せいじゃく)性)が露わ(あらわ)にされている場面なのです。それが歴史に刻印(こくいん)されていくことになるのです。
ミャンマー軍のミンアウンフラインさんも、ロシアのプーチンさんも、ウクライナのゼレンスキーさんも、米国のバイデンさんも、日本の岸田さんも、実は、「イエスの前に立たされている」ということに変わりはないのです。【吉髙叶】

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