ヨシュア記20 章1-9 節
モーセを通して告げておいた逃れの町を定め、意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。(ヨシュ20:2-3)
古代イスラエルにおいては「血の復讐者(ゴーエール)」と呼ばれる存在(制度)がありました。家族の一員が殺された場合、復讐する権利と義務を持つ近親者を指します。この存在(制度)は、現代の司法制度とは異なり、個人や家族が自力で「正義」を実現し、亡き人の尊厳を回復させようとする、謂わば「私刑」の側面を持っていました。しかし、これには深刻な問題がありました。意図的殺人と過失の致死を区別せず、誤って人を死なせた者も復讐を受けてしまう可能性がありました。こうした事態を防ぎ、過失致死者を保護するために設けられたのが「逃れの町」という制度でした。「逃れの町」の設営とその保護の流れについては『ヨシュア記』20 章に記されています。
『ヨシュア記』に記されてはいませんが、「血の復讐者(ゴーエール)」たちの悲劇について想像してみたいのです。復讐の義務を追うことによって被る負担や不都合はたいへんなものだったと思います。近親者を失った直後の悲しみの中、ただちに復讐という責任を負わされるのは大きな精神的負担だったでしょう。特に過失致死の場合、相手に悪意が無いことを知りながら「復讐しなければならない」のですから、深い葛藤を覚えたに違いありません。家族親族からの期待とプレッシャーと相手方の親族からの敵意の狭間に立たされます。失敗はゆるされない、しかし成功しても次は自分が復讐の対象になってしまうかもしれない。「正義」の義務を果たそうとすると分裂と分断をもたらせてしまう。被害者の家族にこのような重荷を負わせるのはあまりに過酷すぎます。「私刑」制度そのものがかなり理不尽なものですが、少なくとも過失致死罪に関しては、こうした復讐の連鎖を断ち切るための重要な安全弁として「逃れの町」は機能していたようです。
「裁き」というものは、「機械的」になされたり「合理的」であればよいということではないでしょう。何を持って「同等・同罰」とするかも簡単ではありません。個人的怒りや怨みが「裁き」の中心に置かれるべきなのか、社会の秩序や抑止力が中心に置かれるべきなのか。被害者・近親者の悲しみはどうなるのか。悲しみを受け止め抱きかかえながら歩むのが社会(共同体)ではないのか。社会を共につくる、というテーマの中にはこうしたたくさんの問いが含まれています。「憎しみと報復の連鎖を止める」。これが社会というものに託されている役目の一つなのではないでしょうか。吉髙叶