2021年9月5日礼拝「牧者が来たりて笛を吹く」

エゼキエル書34 章11-16 節

まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)

牧師になったばかりの頃、近隣の牧師たちに誘われてテニスサークルに入りました。毎週月曜日にグランドに集まっていい汗を流していました。まもなくサークルの名前をつけることになりました。そして名付けたグループ名が「Stray Shepherds」(迷える羊飼いたち)。羊の群れよりテニスボールを一生懸命に追いかけているようじゃダメかな、という自虐の念も少しはありましたが、どちらかというと「牧師」のことを「羊飼い」になぞらえる教会の風潮への反発と抵抗が、当時の若い牧師たちにはあったように思います。
さて、古代メソポタミアの世界では、指導者を「羊飼い」にたとえる事例が頻繁に見られ、『ハンムラビ法典』にもその表現が出てきます。もともと遊牧民族であったイスラエルにとっても、羊の群れを養い導く羊飼いの姿が、良い指導者のイメージとしてしっくりきたのでしょう。聖書にもたくさん登場する比喩です。
日本の「羊飼い」が突然辞任し、杖と角笛を放り投げました。前任の「羊飼い」時代にかなり危険な荒野に連れ行かれ、引き継いだ後任の「羊飼い」自身は、強い霧に閉ざされて道を見失いました。羊の群れは厳しい荒野に取り残されています。弱い羊から順に野の獣の餌食となるのでしょうか。そうは言ったところで、そもそも私たちは首相を「羊飼い」になぞらえたり、自分たちのことを「羊の群れ」と考える感覚はほとんどありません。ですから「羊飼い」はいないのです。けれども、この社会は何かに誘導されて進んでいることも事実です。様々なトレンドと新商品、投資や資産運用、高学歴追求、快適と便利の誘惑に囲まれ、新しい刺激に翻弄されながら「群れ全体」が動いているという感じでしょうか。ワイドショーはいつも誰かを一斉に攻撃し、コマーシャルは新商品へと誘導し、下品で無意味なバラエティー番組を「宥(なだ)めの角笛」代わりに聞かせられる日々。忍耐力は減退し、想像力は貧困になり、共感力も麻痺し、即物的・感覚的になり、すぐに退屈を感じる人間集団になってしまっているのかもしれません。たとえばこうした事なども、今日の日本社会の「羊飼いの姿」「羊の姿」なのかもしれません。そして、かなり危ない場所に私たちは立ち入ってしまっているとも言えます。エゼキエルを通して、偽りの羊飼いを断罪する主ヤハウェ。失われかけている羊の群れを憐れみ、「もはや自らが牧者となって杖を取り、角笛を吹く」と言われます。「わたしが羊を探し出し、食べさせ、憩わせる」と。あぁ、主よ、来たりませ!【吉髙叶】

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