2021年5月16日礼拝「対話をやめない」

使徒言行録15章4-19節

 初代教会の歴史にとってかなり大きな役割を果たしたのが西シリアに形成されたアンティオケア教会です。この群れの中から、パウロとバルナバが派遣されて「第一回伝道旅行」と呼ばれている旅が始まります。そして、彼らの伝道旅行がもたらした実りは、キリスト教の歴史にとって重要な意味を持っていました。つまり、イエス・キリストの福音は、「旧約聖書」すなわち「律法と預言者」をベースにしたユダヤ人にだけに語られるのではなく、世界に生きるあらゆる人々に伝えられるべきであり、また伝わっていく神の知らせ・福音であるということが、彼らの宣べ伝えと出会いを通してはっきりと実証され経験されたということでした。
 イエスさまご自身は、サマリヤ地方やガリラヤ湖の対岸にはお出かけになりましたが、遠く外国に出かけていくことをなさらず、また使徒たち・弟子たちもみな、最初はパレスチナ地方に限定して生活しているユダヤ人として、エルサレムの教会に結集するかたちをとっていました。極めて初期のキリスト教会は、ユダヤ人クリスチャン(ヘブライスト&ヘレニストのユダヤ人)のみの集団でした。このようなユダヤ人中心のキリスト教会が、新しい発展期を迎えたのは、ステファノの殉教以後です。そのとき起こったユダヤ教徒たちの迫害のため、クリスチャンたちが、散らされて、追われ、逃げていって、各地で福音を伝えました。
 松の木は二種類の「松ぼっくり」を持っているのだと学んだことがあります。一つ一つの殻が開いたタイプのものと、堅く閉じられているタイプの二種類です。あの松ぼっくりの中に種子が納められていて、殻が開いたときに種子が飛んでいくわけですが、一方、この堅く閉じられた方の松ぼっくりを何十年もつけ続けていて、「とある状況」になるとその堅い松ぼっくりがはじけて中の種が飛び出すのだというのです。さて問題ですが、その特別な「とある状況」とはどういう状況だと思いますか。それは「火事」(山火事)なのです。火に焼かれた時に松ヤニで堅く閉ざされたその松ぼっくりのヤニが溶けてはじけて種が散るのですね。初代教会にとって「迫害」は大変な災難であり、焼かれるような苦しみでありましたけれども、その災いの下にあって飛び出していった種、それが、福音の種であったというのです。
 また、この迫害の最中に迫害者パウロの回心が起こり、アナニアやバルナバとの出会いがあり、さらに、二人の協力によってアンテオケ教会が形成され、この教会が拠点となって、異邦人に対する積極的な伝道が開始されたのでした。
 けれども、そのようなた新しいステージが見え始めていたその時に、初代のキリスト教会の内部で重要な問題提起がなされたのでした。ある意味では、パウロとバルナバの伝道に水を差すようなクレームでした。それが「割礼問題」でした。

 今日取り上げました聖書箇所は、初代教会にとって画期的な経験と言える「エルサレム会議」の報告です。この会議の「アジェンダ」は「異邦人がクリスチャンになるために、『割礼』は必要か、必要ではないか」でした。最初は「ユダヤ教内のイエス派」的な出発をしたクリスチャン教会でしたから、中にはユダヤ主義・律法主義をかなり引きづったまま加わっていたメンバーたちもいたようです。つまり「誰であれ、いったん『ユダヤ化』されてからクリスチャンになるべきだ」というわけです。ユダヤの中心地につくられたエルサレム教会には、そのようなタイプの人たちがだいぶいたようです。しかし、他方では先ほどお話ししましたように、西シリアのアンティオケアの教会が拠点となって、現在のトルコ、ギリシャ方面への宣べ伝えをした結果、たくさんの異邦人たちがイエスの福音につながっていきました。
 すると、クリスチャンがユダヤ人ばかりであったときには問題にならなかったこと、つまり「割礼の有無」が、次第に問題になってきました。問題視したのはクリスチャン先発組のユダヤ人クリスチャンたちでした。異邦人クリスチャンがマイノリティだったときには、マジョリティ側の「圧力」で割礼を強制できていたのでしょうが、そうもいかなくなりました。そもそも、イエスの福音の「自由さ」とぶつかってしまうのです。
 福音の受け皿(人間や地域)が多様になれば、当然、それまでの前提やものさしは通用しなくなります。「公約数」で統制を計ろうとすると、多様性が増せば増すほど「共通項」を見つけにくくなるのです。それは、あたりまえのことです。
 そこで、エルサレム教会とアンティオケア教会は、「割礼の必要性」をめぐって「使徒会議」を開くことにしました。今日の使徒言行録は、後の時代に要約的に報告されている記事ですからコンパクトにまとめていますが、実際の会議は難しく悩ましい議論が交わされ、苦しい時間だったと思います。かなりシビアな状況だったと思われます。けれども、話し合いの結果、「割礼」や「律法遵守」を強調するけれども、それらはそもそもユダヤ人自身にとっても苦しい軛(首にはめる農具)だったのであり、躓きの石だったではないか。それなのにそれらを異邦人に強要するようなこと、つまり異邦人をいったん「ユダヤ化」しようなどとせずに、異邦人たちは、そのままでイエス・キリストの恵みに与り、クリスチャンとして(自分自身を感謝して)生きていけば良いのだ、という合意に達したのでした。その響き、そのシンプルなトーンが、最後には「みなを静まらせた」(12節)のです。
 これ、すごいことです。キリスト教史の最重要のエポックです。ペトロもヤコブも、ようがんばったな、と思います。
 このように、柔軟な姿勢が持てたとき、聖霊の作用に身体を開けたとき、教会は新しい世界と新しい時代に開かれ、広がります。

 このエルサレム会議の報告を通して、今朝は、私たちもご一緒に、大切なしかしシンプルな事実を確認しましょう。
 神は全ての人々に声をかけてくださいます。一人ひとりが神の愛の言葉を聴くことに招かれています。誰からも妨げられず、一人ひとり、自分として神の愛を「聞くこと」ができるのです。決して「日本人」という属性で神の声を聞くのではありません。「欧米人」という耳で神の声を聞くのではありません。誰もが直接神の声を「私として」聴くのです。
 また、神の愛は、その人の、つまりわたしの、あなたの、それぞれの生活、それぞれの個性、それぞれの課題の中に注がれています。神の愛をそれぞれが受け止め、喜び、応えて生きるのです。ユダヤ人的な生活態度が神の愛を受けたかたちではありません。欧米人的な生活様式が祝福の姿ではありません。文化人的なふるまいが信仰者の姿でもありません。わたしの固有のかたちの中で、神の愛は芽を吹き、わたしなりに、わたしらしく、神の愛を感謝し、感謝を表現する生活を発芽させていくのです。誰もが古い自分からの転換を与えられ、誰もが新しくキリストへの転換を呼びかけられています。このことにおいては、もはや何の妨げも無いのです。
 そして、この自由な解放の響きは、今、この時代にこそ響いて欲しいと願います。今日、私たちの世界、この世にも教会にも、「今日の割礼問題」と呼ばざるを得ないような壁、人と人の障壁となって立ちはだかろうとするたくさんの問題が抱え込まれています。性の違い、皮膚の色の違い、所有量の違いつまり貧富の格差。人種差別や性差別、特に性的マイノリティへの偏見と差別は、教会が神から厳しく問われている問題です。しかし教会世界の内部にそれらをめぐる理解の違いがあります。その理解の違いに「聖書的な正しさ」を持ち込むと、対話が行き詰まり、対話の拒絶を生み、対話の拒絶は、自由と解放に与るチャンスを人々から遠ざけ、更なる偏見と憎しみとをそれぞれにもたらせてしまいます。
 私たちは、今この時代の中で、解放の響きを聴くために「対話する」という態度をやめてはなりません。そして対話を通して、最期には、エルサレム会議の時のように自分自身に静まり、みんなが神に招かれているという響きを聞いていくべきです。
 私たちは、対話することが大切です。できればみんなで、早めに話し合うことが大切です。「これまで」に囚われすぎないことも大切です。また、問題をよく理解するために「だれが辛い思いをしているのか」という視点で見つめることが大切です。そして何より、「それはイエス・キリストの思いだろうか? それはキリストの福音だろうか」という問いをもって考えることが大切です。「エルサレム会議」が福音宣教にとって画期的な出来事だったとするならば、今なお、宣教にとって大切なのは、対話を続けることです。

 対話する。対話をやめない、という原理の大切さを、私たちは今こそ心に刻まねばなりません。ミャンマー国軍の民衆弾圧に心が震えます。パレスチナの空爆に胸が痛みます。入管法改悪をもくろむ国会運営に悲しみをおぼえます。対話するという原理が失われたところに引き起こされる悲劇を私たちは見ています。
 このような人間の悲劇をまのあたりにするとき、「福音」とは取りも直さず人間の解放のことであり、また和解のことであり、「宣教」とはそのために対話することなのだと感じます。分裂から和解への転換と回心を。不公平・偏見からの転換と回心を。憎しみから愛への転換と回心を。戦争から平和への転換と回心を。それを宣べ伝えるのが真の意味での「福音宣教」ということなのではないでしょうか。

祈り
 主よ、私たち市川八幡キリスト教会が、この時代にあって、人間の転換や回心の素晴らしさを証する伝道者者の群れとなっていくために、自慢する心のかわりに砕けた心を、誇る心の変わりに悔い改める心をお与えください。自分に与えられたものを大切に受けとめる心と、相手に起こっている出来事を喜ぶ心とを与えて下さい。
 一人びとりの今日からの歩みが、その日その時なりに精一杯の転換を与えられるとともに、キリストにある転換や回心の嬉しさを、身近な人に伝えることのできる証のチャンスを授けていてください。
 主よ、市川八幡教会にも、あなたの解放の響きを聴いていくための対話と協議の場を、時に適って与えていて下さい。対話すること、協議することを恐れず、かといっていたずらに議論をするのではなく、ただあなたのみこころを聞き合い、歩み方を決めていくために私たちを整え、導いていてください。
 主よ、対話が閉ざされ、遮られているがゆえに苦しんでいる人々を助けてください。そして「対話せよ」との聖霊の風が、その苦しみを産み出している場所に吹きめぐりますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。

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